平地の広い境内で叢林もある。 当社は、通称「蚕の社」と呼ばれているがそれは本殿右に、蠶養神社を祀っているためである。 境内に有名な三柱鳥居がある。正三角形に組んだ鳥居で、この鳥居の中心点に組石の神座があり、三方から遙拝できるようになつている。鳥居の創建年代については未詳であるが、現在のものは享保年間に修復されたものである。 この三本柱の鳥居のある池は元糺(もとただす)の池と呼ばれている。当然下鴨神社の糺の森との関連があるわけで、元々はここにあった祭祀を下鴨神社が出来た時に向こうに移したため、こちらは「元糺」なのであろう。 創祀年代不詳であるが、境内には今日なお清例な湧き水があり、古くから水の神・ムスヒの神として深い信仰を得ていたものと思わる。 太陽信仰とも密接な関係があるとされ、比叡山・当社・松尾大社と結ぶ線は夏至の日の出=冬至の日の入りの線にあたる。 社名の天照御魂は天照大神(皇祖神)とは別の神格の太陽神と考えられている。 |
木島坐天照御魂神社(蚕の社) この神社は、通称「木嶋神社」又は「蚕の社」と呼ばれる延喜式内社で、天御中主命・大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命を祀っている。 「続日本紀」大宝元年(701)4月3日の条に、神社名が記載されていることから、それ以前に祭祀されていたことがわかる古社である。 この嵯峨野一帯は、古墳時代に朝鮮半島から渡来し、製陶・養蚕・機織などにすぐれた技術をもっていた秦氏の勢力範囲で、当神社本殿の東側には織物の祖神を祀る蚕養神社(東本殿)があり、「蚕の社」もそれにちなんだ社名である。 この神社は、古くより祈雨の神として信仰が厚く、参詣の人も多かったことが平安時代に書かれた「日本三代実録」や「梁塵秘抄」などの文献からうかがい知ることができる。 社殿は明治以後のもので、本殿・東本殿・拝殿などがあり、社殿を取囲むように巨樹が繁茂している。本殿の西側には四季湧水する「元糺の池」という神池があり、天保2年(1831)に再興された京都三鳥居の一つとされる石製三柱鳥居が建つ。 例祭は、毎年10月10日が行われるが、夏季土用の丑の日には、この池に手足を浸すと諸病によいという庶民信仰がある。 市内でも最古に属する当神社は、境内から清泉が湧き、巨樹が繁茂して古来の姿をよくとどめており、京都発展に大きな役割を果してきた秦氏との関連を含め、大へん貴重なものとして昭和60年6月1日に京都市の史跡に指定された。 推定面積11.131u 京都市 社頭掲示板 |
木島坐天照御魂神社 由緒 木島坐天照御魂神社 延喜式内社で祭神は天之御中主神外四柱(大国魂神・穂々出見命・鵜茅不合命・瓊々杵尊〉を祀つている。創建年月日は不詳であるが、「続日本紀」大宝元年(701)4月3日の条に神社名が記載されていることからそれ以前に祭祀されていたと思われる古社である。天之御中主神を主として奉り、上は天神に至り下は地神に渉り、御魂の総徳を感じて天照御魂神と称し奉り、廣骼尅n建とともに勧請されたものと伝えられる。 学問の神であり祓いの神でもある。 蚕養神社(蚕ノ社) 本殿右側の社殿 雄略天皇の御代(1500年前)秦酒公呉国(今の中国南部)より漢織・呉織を召し秦氏の諸族と供に数多くの絹 綾を織り出し「禹豆麻佐」の姓を賜る。この地を太秦と称し推古天皇の御代に至りその報恩と繁栄を祈るため養蚕 織物 染色の祖神を勧請したのがこの社である。 養蚕 織物 梁色の守識神である。 元糺の池 境内に「元糺の池」と弥する神池がある。嵯峨天皇の御代に下鴨に遷してより「元糺」と云う。 糺は、「正シクナス」「誤ヲナオス」の意味で此の神池は身滌(身に罪や穢のある時に心身を浄める)の行場である。 夏期第一の「土用の丑」の日にこの神池に手足を浸すと諸病にかからぬと云う浴信仰がある。 三柱鳥居 全国唯一の烏居てある。鳥居を三つ組み命わせた形体で中央の組石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心を表し四万より拝することが出来るよう建立されている。創立年月は不詳であるが現在の烏居は享保年間(約300年前)に修復されたものである。 一説には景教(キリスト教の一派ネストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている。 社頭掲示板 |