道路に面して鳥居があり、階段を登ると境内。 日本書紀によれば、顕宗天皇の3年(437年)、阿倍臣事代が山城国葛野郡の荒樔田の地(桂川辺、現在の上野辺付近)を神領として賜り、月読尊を祀る神社を壱岐から勧請創建し、壱岐県主・押見宿祢が神職として奉仕したと伝えている。押見宿祢の子孫は卜部姓であり、代々神職として世襲したが、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けて、松尾山南麓の現在地に移った。 全国屈指の名社であるが、当松尾大社の勢力圏内にあるため、古くから松尾大社の摂社とされてきた。 境内には聖徳太子社・御船社・月延石がある。聖徳太子社は月読尊を敬祭された太子の徳を称えて祀ったとものといわれ、御船社は、天鳥船神を祭神とし、毎年神幸祭の前に渡御安全祈願祭を執行する。 月延石は安産石とも称し、神功皇后が腹を撫でて安産せられた石を、月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、当社に奉納されたという伝説があり、古来安産の霊験があると云われている。 当初の鎮座地「歌荒樔田」の比定地について、社伝(月読大神宮伝記)では上野説(月読塚が存在した地)・桂里説を挙げるが、他に宇太村説(のちの平安京造営地)・有栖川流域説などの諸説が知られる。『文徳天皇実録』の記述により川辺にあったことが確かとされることから、中でも上野説が有力視されている。 |
月読神社境内 月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。 文献によれば、顕宗3年(487)阿閉臣事代が朝鮮半烏に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡3年(856)に松尼山南麓の現在の地に移ったと伝えます。 境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。 月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡米系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京郁の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます。 平成5年4月1日 指定 京都市 社頭掲示板 |
月読神社 【鎮座の由来】 日本書紀の顕宗天皇3年2月(487)の条に、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)という者が勅命を奉じて任那に派遣されることになったが、月神が或る人に憑依して …… 「我が祖、高皇産霊(たかみむすび)、天地を熔造(ようぞう)するの功に預かる。宜しく民地を以って奉れ。我は月神なり。若し請に依り、我に奉らば、当(まさ)に福慶(ふくけい)おらむ」… との託宣があった。 事代は都に還り、このことを奏上した。 朝廷では月神の請をいれて山背国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉られた。 そして月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)が神社を造営し、祠官として奉仕した。 これが月読神社の創祀である。 その後、押見宿祢の子孫は世襲祠官として永く神社に仕え、本貫地の壹岐(伊岐)を氏の名とした。 この伊岐氏は、後に壱岐国の県主(島造)となった名族で、押見はその祖に当たる人である。 壱岐は地理的に大陸に近い関係で、壱岐氏は早くから中国の亀卜の術を我が国に伝え、これを中央に伝播んした氏族の一つで、神祇官にあって卜占の事に関与し卜部氏を名乗っていた。 卜占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分等の祖神と仰ぐ「月神」に、氏族の安泰と繁栄を祈念すべく奉斎したのが、そもそも当月読神社の創始ではなかったろうか。 【荒樔田について】 当初の鎮座地、については、現在も月読の地名が残っている桂川左岸に在ったとも、右岸の桂上野の辺とも言われているが定かではない。 現在地に移ったのは、文徳天皇斉衝三年(856)で、度重なる桂川の氾濫を避けて安全地帯の松尾山麓を選ばれたものであろう。以後この地も、祠官の家名も松室と呼ばせるようになったと言われる。 以後この地も、祠官の家名も松室と呼ばせるようになったと言われる。 【秦氏との関係】 葛野郡一帯は早くから、帰化族の秦氏の勢力圏であったから、当然当神社も松室氏も秦氏の厚い庇護を受け親密な関係にあった。 このことは、当社の世襲祠官であった松室氏が、秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕していたことでも明らかである。 【信仰の変化】 信仰も元来の天文・暦数・卜占・航海の神から転じて、疱瘡の神として崇められることもあり、近世以降はむしろ農耕の神として地元農民の崇敬を受けて今日に及んでいる。 公式HP |
月読神社 京部市西京区嵐山宮町松尾大社の摂社。 『日本書紀』の顕宗天皇3年の記事に、阿閉臣事代が任那に使した時、月神を祀れば福慶を与えるという月神の詫宣を受け、朝廷は壱岐県主の祖押見宿根に命じて祀った古社である。延喜の制名神大社に列している。壱岐の月読神社と関係があろう。 神社辞典 |
葛野坐月読神社 名神大月次新嘗 葛野は郡名に同じ、月読は都岐興美と訓べし、(宣長は都久用美と訓べしと云り、然れども日本紀、古事記、万葉集、等みな月読とありて、歌に都久用とは詠たれど、都久用美と仮字にて書たる所なければ、今古点の儘を用ふ、)○祭神月読尊(社説)〇松尾郷松室村に在す(山城志)松尾摂社也、例祭松尾同日、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城國葛野月読神社一座、○日本紀、顯宗天皇3年2月丁巳朔、阿閉臣事代、銜命出使于任那於是月神著人謂之曰、宜以民地奉我、月神若依晴献我当福慶、事代山是還京具奉奏、以歌荒巣田、(歌荒巣田在山城國葛野郡)壹岐縣主先祖、押児宿禰侍祀」旧事紀、(天神本紀)天月神命、壹岐縣主等祖、旧事紀■頭に、紀伊国淡島社司紀如尚云、天月神命非月読命、高皇産令裔神也、顕宗紀云々、壹岐島壹岐郡月読神社、高御祖神社、又山城國葛野坐月読神社、右所謂月神月読神社共是天月神命也乎といへる考は、いかにとも謂がたし、 類社 常國綴喜郡月読神社、(大月次新嘗)壹岐島壹岐郡月詠神社、(名神大)当國綴喜郡樺井月神社、(大月次新嘗)丹波国桑田郡小川月神社(名神大)伊勢國渡会郡月夜見神社、 連胤按るに、此五社は恐らく同神なるべし、但し伊勢国渡会郡月読宮は、此例に入れず、 鎮坐 文徳実録、斉衡3年3月戊午、移山城国葛野郡月読社、置尾之南山、社近河濱為水所噛、故移之、 連胤按るに、当社旧地未考へ定めず、(日本紀通証に注せるも、実地は志れず、)歌荒巣田は、神社考云、在大堰河之西南、即今松尾之東南地是也、(比保古同じ) 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国葛野月読神正二位、 官幣 三代實録、貞観元年9月8日庚申、山城國月読神、遣使奉幣、為風雨祈焉、 雑事 続日本紀、大宝元年4月丙午、山背國葛野郡月続神神稻、自今以後給中臣氏、 神社覈録 |