月読神社
つきよみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】月読神社(名神大) 壱岐島 壱岐郡鎮座
          (関係社)山城国 葛野坐月読神社

   【現社名】月読神社
   【住所】長崎県壱岐市芦辺町国分東触464
       北緯33度47分59秒、東経129度43分25秒
   【祭神】中 月夜見尊 左 月弓尊 右 月読尊
   【例祭】9月22-23日 例大祭
   【社格】旧無格社
   【由緒】顯宗天皇3年(487)壱岐県主の祖押見宿禰が創祀
       貞観元年(859)正月22壱従五位上
       延宝4年(1676)6月橘三喜は藩命で月読神社と比定

   【関係氏族】壱岐氏
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

延宝4年(1676)6月橘三喜は藩命によつて壱岐島の式内神社を調査し、本社の位置をここに査定した。藩主鎭信は石祠と木鏡一面を献備した。
国分村深淵の岸の上の山の端に山之神と称する所があり。又古木と云。「ふかふち」訛って「ふかつき」と云った。此の山之神の前の岸の崖の下にあり。又「きよつき」と云った。この「ふかつき」「きよつき」の地名に由って「つきよみ」神社と定められた。
京都の月読神社は、487年壱岐の県主(あがたぬし)の先祖忍見宿祢(おしみのすくね)が壱岐から分霊したもので、ここは神道の発祥の地とされる。


月読神社

 御祭神 中 月夜見尊 左 月弓尊 右 月読尊
 御鎮座地 壱岐郡那賀国分東触
 境内地 649坪
 御神徳 諸行繁盛 すべての願い事がかなう
 鎮座年数 西暦487年月読神社に天月神命を祭り
高御祖神社には天月神命の祖高産霊尊を祭るとあり
 御鎮座の由来 延喜式に壱岐郡 月読神社「名神大」とあり
 月読尊の御事については、古事記の上巻に、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の御親神が、天照大御神をお生みになられ、次に月読尊をお生みになられたと表されてあります。
 また、日本書紀には、「すでに大八州国(日本)及び山川草木を生むことが出来た、何ぞ天下(あめのした)の主君(きみたるもの)を生まざらむ」といわれて、是に天照大御神をお生みになられ、次に月読尊をお生みになられたと記されたあり。
 また一書には日に並ぶともあります。即ち天照大御神及び月弓尊を並に是、質性明麗し。故、天地に照し臨ましむ。
 天照大御神のご神徳は「その光華明彩(ひかりうるわしいこと)六合に照り徹るほどでございます」と太陽にたとえて表されておりますので、月読尊の御威徳は、それに次ぐものとして、月になぞらえておたたえしたものと拝されます。
 太陽、月、大地、自然と共に神は存在されておられると言う事(アニミズム)を壱岐の祖先は熟知され月が万物(すべて)に利益を与えるごとく邪心(よこしまなこころ)が無く玄徳(最も奥深い徳)を極められていたようです。
 壱岐の県主の先祖「忍見宿祢(おしみのすくね)」が西暦487年月読神社を分霊して壱岐から京都に祭りに行かれた。
 忍見宿祢により、神道が中央に根ずく事になったとされております。つまり、壱岐島が神道の発祥の地といわれております。
 京都、洛西、松尾大社の横の月読神社はあり。伊勢神宮の内宮に月読宮、また外宮に月夜見神社があります。壱岐島の月読神社が全国の月読社の「元宮」とされております。
平成8年10月 壱岐「島の科学」研究会

社頭掲示板



月読神社

『神社明細帖』に「月読神社、但式内無氏子。勧請年月不詳。社地一反八畝十四歩半」、 『壱岐国神社田畑帳』に「月読神社、廿四座之内、畑方三舛蒔村中より小祭り有り」と記されている。
延喜式巻十に「月読神社名神大」とあり、また『三代実録』二巻にも貞観元年(859)正月27日「壱岐島従五位下海神、住吉神、兵主神、月読神、並従五位上」とあり、月読神社が従五位上に叙せられているのを見ることが出来る。『神社帳』も「当社ハ嵯峨天皇之草創而所載延喜式に壱岐国二十四座之内壱岐郡国分村月読神社名神大」 としている。
しかしながら、『特撰神名牒』は「今按延宝の調また明細帳、長崎県式内社記ともに国分村にありとす、神社考に国分邑深渕の岸の上山端に山の神と称するあり、この深渕を訛りてふかつきと云り、其渕今埋りて猶水の溜 れる渕の跡あり、きよつきとも云ふ。延宝の時きよつきの名に因て月讀神社と定む、然れとも延宝以前社なかりしほどなれば式社にはあるべからずと見え、式社沿革考に式社累考に箱崎邑と記せしや正しからむ其は内殿の棟札に『箱崎八幡宮壱岐国壱岐郡月読宮釣瓶荘潮安郷奉造内殿一宇大宰大弐兼筑後守藤原景資』右の傍に『正慶元年』左の傍に『壬申8月5日』大宮司云云伊岐末茂云云とある文による時は月読神社は箱崎村宗社八幡宮と御同殿にます神ならん、箱崎邑釘丘郷天月の里に天月神社あり是其古社なるべしと云る證ありて聞ゆれば箱崎邑と定めて可ならん」と記している。

芦辺町町史



月読神社

一、顕宗天皇3年(487)阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那に使いに出る。その際に人に月の神が神がかりしまして「土地を月の神に奉献せよ、そうすれば良いことがあろう」という詫宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐県主の押見宿禰に命じて、壱岐の月読神社から分霊させ京都に祀らせた。
一、舒明天皇2年壱岐の公乙等を筑紫の伊都に遣わし神石を求め、一つを京都の月読神社に納める。この石はその昔、神功皇后が月神の教えによりお産を延ばされた事で「月延べ石」と名づけられた。その石は、今伊都の鎮懐石八幡宮と壱岐の月読神社にあると言われている。
一、 文武天皇大宝元年初めて行幸あり、神石をご覧になられ、壱岐古麻呂に命じて幣帛を奉納し神税を古麻呂に給う。
一、宝亀33年暴風雨で木や家が倒れた。これを占うと月読神の崇りであった。そこで忌部正美が奏じ、神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして神の怒りを鎮めた。
一、國分郷古木村清月に社在り、延宝4年(1692)6月朔日建立拝殿の内に石のご御殿有り、拝殿は西北西向きで?葺き梁行二間、桁行二間半である。境内は、東西二五間余り、南北三一間余り、周囲一町一七間余り、山中山道一六間。祠菅榊原主殿藤原正益、定祭9月23日云々
一、霊元天皇延宝4年6月朔日、松浦肥前守従五位下源朝臣鎭保、石祠及び木鏡を寄進。[木鏡の銘]には、「奉ル備二四座ノ内月読神社御正體木鏡一面」とあり。

由緒書



無格社 月読神社

鎮座地 那賀村大字國分東触
祭神 中月夜見尊、左月弓尊、右月読尊
例祭日 10月23日 神幸式、大神樂奉奏
境内地 649坪
〔由緒沿革〕
一、延喜式ニ壱岐郡月読神社(名神大)アリ。
一、三代実録二巻ニ貞観元年正月22日壱岐島從五位下月読神從五位上トアリ。
一、鎮座年数不詳ナレドモ顕宗天皇紀ニ3年2月丁巳朔阿閉臣事代御命出使干任那於是月読著人謂之日我祖高皇産霊有溶造天地之功宜以民地奉我月神若依請献我常福慶事代由是還京具奏奉以歌荒巣用壱岐縣主先祖押見宿禰侍祠トアリ、是等ノ由ニテ祭初メラレタルナラン。
又筑前國風上記ニ神功皇后將入干三韓時既臨産月皇后自爲祭主祷之曰事竟還曰須産于茲土于時月神誨曰以此神石可撫腹皇后乃依神石撫腹心体忽平安也今其石在筑前伊観縣道ノ辺後雷霹神石爲三段
〔月読神社縁起〕ニ〔懐中暦〕云舒明天皇2年8月伊吉ノ公乙等ヲ筑紫怡土県ニ遣ハシテ神石ヲ求メ一片ノ石ヲ■荒巣田ノ神宮ニ納ム此石ハ往古神功皇后月ノ神ノ教ニ随ツテ産月ヲノベ給フニ因テ後2月延石ト名ヅク其三片ノ石ハ今怡土縣壱岐島月読社ニアリ文武天皇太宝元2月始テ行幸アリテ神石ヲ見給ヒ伊吉ノ古麻呂ニ命ジテ幣帛ヲ奉リ神税ヲ古麻呂ニ給フトアリ。
又宝亀33年8月大風雨折木倒家是ヲ占フニ月読神祟ヲナス是ニ依テ忌部正美奏、神島大中臣清麻呂ヲ山城、伊勢、壱岐ニ座ス月読神社ニ遣ハシテ神ノ怒ヲ謝ス、桓武天皇延暦21年初テ大社ノ列トナシ給フ、嵯峨天皇弘仁2年10月已下後烏羽天皇元暦2年3月已前ハ住吉社丘主ノ社ニ同ジ云々。
〔月読神社ノ縁起〕ニ月読神社一名清月社在国分郷古木村拝殿之内有石ノ御殿延宝4年6月朔建立、拝殿ハ戌向茅葺也簗行二間桁行二間半在國片主ノ社ノ石鳥居四五町
境内東西廿五間余南北三十一間余、周匝一町十七間余、山中参道十六間祠官榊原主殿藤原正益、定祭9月23日云々。
一、神階ヲ進メラルゝ事式内大社ノ例ニ依レリ。
一、霊元天皇延宝4年6月朔松浦肥前守從五位下源朝臣鎭保石祠及木鏡ヲ寄進セラレ共〔木鏡ノ銘〕ニ奉備廿四座之内月読神社御正体木鏡一面トアリ。

壹岐國神社誌



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