大原野神社(入野神社旧地)
おおはらのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】 入野神社 山城国 乙訓郡鎮座
          (現在地)入野神社

   【現社名】大原野神社
   【住所】京都府京都市西京区大原野南春日町1152
       北緯34度57分36秒,東経135度39分24秒
   【祭神】建御賀豆智命 伊波比主命 天之子八根命 比淘蜷_
   【例祭】4月8日 例祭
   【社格】旧官幣中社
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】入野神社は当初この地に鎮座と云う

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 大原野神社
   【社殿】本殿
       拝殿社務所

   【境内社】

入野神社は当初この地に鎮座と云う。その後現在地へ遷し、大原野神社の御旅所となったと云う。


由緒

大原野神社由緒略記
創立と沿革 大原野神社の鎮座する南春日町付近は、山城地方でも最も古くから開けた所で、一万年以前の有柄尖頭器などが神社の山の手の方からはっけんされている。人皇50代桓武天皇が、延暦3年(784)都を大和の奈良から、京都向日市を中心とした長岡京(784〜794)に遷された時、鷹狩を愛した天皇は、しばしば大原野の地に足を運んで、鷹を放たれた。
万葉集の編者大伴家持が、大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん、と詠じたのも、このような催しに従った折のことである。その節には藤原氏の人々も多く参加していたが、それらの人々はこの地の風景の美しいのを賞でて、氏神である奈良春日大社の分霊をうつし祀ることにした。これが当社の起りである。
その後約60年を経た嘉祥3年(850)に左大臣藤原冬嗣のむすめ順子を母とした文徳天皇は、祖父、冬嗣の願望を思い出してこの地に壮麗な社殿を造営された。
明治4年(1871)官幣中社に列せられ御社頭はにぎやかであったが、第2次大戦のあと、国家からの援助は打切られ現在に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大原野神社

延歴3年 桓武天皇が都を奈良から長岡京(現向日市)に遷されたとき、天皇はしばしば大原野に遊んで鷹を放たれました。藤原氏の人や多くの供奉の人達はこの美しい風景を賞でて氏神春日大社の分霊を遷し祀ることにしたのが当神社の起りです。
その後、約60年を経た 嘉祥3年(850)に左大臣藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇は冬嗣長年の願望を想い出して、壮麗な社殿を造営されました。
仁寿元年(851)始めて勅祭がな行われ、春秋二季を例典とされました。はじめ藤原氏の一族では女が生まれると、中宮や皇后になれるように、この社に祈り、幸にして女が祈願通りの地位につくと美くしく行列を整えて参拝することが例となり、なかでも寛弘2年(1005)3月8日に中宮彰子が本社に行啓、御父左大臣藤原道長、紫式部以下がお供をした、その行列の絢爛さは、人々の眼をみはらせたと云われています。
また清和天皇の皇后藤原高子が、まだ皇太子の御息所であった時、当社へ参詣になり、供奉の在原業平が、「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」との和歌を詠じて奉ったことは、有名であります。
このように由緒正しく、また栄えた神社であったので、六国史、大鏡等は勿論、源氏物語、その他有名な古典には当社のことがしばしば書きとどめられています。
大原野神社の御本殿の第一殿には建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、第二殿には伊波比主命(いわいぬしのみこと)、第三殿には天之子八根命(あめのこやねのみこと)、第四殿には比賣(ひめ)大神が祀られ、摂社若宮社には天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀っています。古くから政治・方除・知恵の神として、また良縁を授けて下さる女の守護神としての信仰が篤いのです。

社頭掲示板



大原野神社

春日大社は平城京の東、古来より神山と崇められる御蓋山(みかさやま)の西麓に神護景雲2(768)年に鎮座し、政権を担う藤原氏にとってはまさに王城鎮護、国家鎮護の社でありました。かたや大原野神社は長岡京の西、小塩山の東麓に鎮座し、平安京遷都後も二十二社(にじゅうにしゃ・常に朝廷の殊遇を受けた社で、国家に重大事や天変地異のあるごとに使を遣わされて奉幣を受けた二十二の神社)に列し国家鎮護の社とされました。
その後、約60年を経た 嘉祥3年(850)に左大臣藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇は冬嗣長年の願望を想い出して、壮麗な社殿を造営されました。
仁寿元年(851)始めて勅祭が行われ、春秋二季を例典とされました。はじめ藤原氏の一族では女が生まれると、中宮や皇后になれるように、この社に祈り、幸にして女が祈願通りの地位につくと美くしく行列を整えて参拝することが例となり、なかでも寛弘2年(1005)3月8日に中宮彰子が本社に行啓、御父左大臣藤原道長、紫式部以下がお供をした、その行列の絢爛さは、人々の眼をみはらせたと云われています。
また清和天皇の皇后藤原高子が、まだ皇太子の御息所であった時、当社へ参詣になり、供奉の在原業平が、「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」との和歌を詠じて奉ったことは、有名であります。
このように由緒正しく、また栄えた神社であったので、六国史、大鏡等は勿論、源氏物語、その他有名な古典には当社のことがしばしば書きとどめられています。
大原野神社の御本殿の第一殿には建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、第二殿には伊波比主命(いわいぬしのみこと)、第三殿には天之子八根命(あめのこやねのみこと)、第四殿には比賣(ひめ)大神が祀られ、摂社若宮社には天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀っています。古くから政治・方除・知恵の神として、また良縁を授けて下さる女の守護神としての信仰が篤いのです。
神域
神域は8万3千平方メートルあって、うち6万6千平方メートルは緑の林になっています。
山林はむかし殿上人が子の日の遊びをした跡で、いまも昔をしのぶことができます。また参道付近には紅葉や桜が多く、奈良の、猿沢池にまねて造った、鯉沢の池には、かきつばたや水蓮の花が美しく、古歌に詠まれた瀬和井(せがい)の清水は、古木の根本にかくれて清らかであります。
春季には名にしおう小塩桜、霧島、ぼたん、つづじなど到るところに研を競い夏季は新緑にはほととぎす、秋季は紅葉、冬季は丹朱社殿の雪景が一しおの尊厳、優雅さを添え、その風景は今なお王朝の余香を感じることもできます。

公式HP



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