小倉神社
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   【延喜式神名帳】 小倉神社(大 月次/新嘗) 山城国 乙訓郡鎮座

   【現社名】小倉神社
   【住所】京都府乙訓郡大山崎町円明寺鳥居前83
       北緯34度54分33秒,東経135度40分37秒
   【祭神】武甕槌神 齋主神 天兒屋命 比賣大神
   【例祭】1月第2日曜日 例祭 2月3日 例祭 2月11日 例祭 5月3日 春季例大祭 9月1日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】元正天皇養老2(718)に勧請
       桓武天皇平安遷都(794)のとき御所の鬼門除として祈願
       嘉祥3年(850)正一位
       豊臣秀吉は山崎合戦(天正10 1583)の砌戦捷を新願
       元治元年(1864)7月蛤御門の変に際し、徳川勢は当社に戦捷を祈願
       明治6年(1873)8月村社
       明治10年6月(1877)式内社公認の下附
       明治16年5月4日郷社に昇格

   【関係氏族】
   【鎮座地】神社創建似来、現在の鎭座地を移動した形跡はみられない

   【祭祀対象】
   【祭祀】社名・祭神の変化は見られない
   【社殿】本殿春日造 瓦葺
       拝殿・割拝殿・参集殿・社務所

   【境内社】熊野・稻荷・龍王神社・若宮神社・天神社・石倉神社

小倉の「倉」は「御座」「岩座」を指すものと解すべく、小倉は「神座」としての「座」を意味したであらう。「オグラ」神社は長岡東・平安京の守護神としての性格を浮き彫りにする。
境内には樹齢600年と言われる杉のご神木があります。
養老2年平安遷都の時御所の鬼門よけとして創建。
山崎合戦の際、豊臣秀吉が片桐且元、脇坂安治を遣わし戦勝を祈願した。戦後、毎年米三千俵を寄進したという。


参拝のしおり

当社は元正天皇養老二年(七一八)に勧請され、桓武天皇平安遷都のとき御所の鬼門除として祈願され、延喜の制により大社に列し、月次、新嘗の官幣に預かったとあります
。醍醐天皇は深く崇敬し給い、文徳天皇のとき神階正一位に進められ、正一位小倉大明神と号しました。天正年間、豊臣秀吉は山崎合戦(天正10年1582)のとき家臣片桐祐作、脇坂陣内を当社に遣わし、戦勝を祈願しました。その本懐達したるを以って神徳に報いるため、毎年米三千俵を寄進しました。
江戸時代に至り、徳川氏また山地二十余町歩を寄進したといわれ、旧境内地は六万坪余もありました。明治時代氏子村々…円明寺村(山寺含む)、下植野村、調子村、友岡村、下海印寺村、金ヶ原村、神足村、古市村、勝竜寺村、久貝村以上十ヶ村とあります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




小倉神社

祭神 建甕槌命 天児屋根命     斎主命 比売大神 当神社は第44代元正天皇養老2年今を距てる1200有余年前の創建にして延喜式の大社として正一位小倉大明神と朝野の崇敬を集め桓武天皇京都に遷都し給いし時御所の鬼門除として祈願あらせられ年2度の厚き奉幣あり。
天正年間豊臣秀吉山崎合戦の節宝寺に本陣を構えしとき特に当社に戦捷幸運の祈願を込めその本懐を達したるを以て家臣片桐祐作、脇坂陣内を使者として□3000俵の寄進在り。その後徳川時代にいたり御朱印地として山地廿余町を賜りたり。如斯往古より格別の由緒を以て民衆の崇敬もきわめて篤く社殿は結構素朴幽遂の浄地に鎮りまし社側一条の渓流は清冽掬すべく賽者のこの水に浴して祈願を籠むるもの古より少なからず。
参道2基の大鳥居いづれも元禄年間に創建せられたるものにして、これに奉掲する神額は小野道風の筆と云う。
昭和43年1月吉辰
小倉神社

社頭掲示板



小倉神社

創建は古く、奈良時代の養老2年(718)に乙訓地方で最も早く鎮座した神社の一つである。
平安時代に記された延喜式紳名帳の乙訓19座中にもその名が見え、名神大社に列せられていた。今日も広く信仰を集め、大山崎町内のみならず長岡京市内(旧鞆岡郷)にも多くの氏子を持っている。
本殿は江戸時代後期の建築で三間社流造。
檜皮葺で、随所に創意工夫が凝らされている。
他にも本殿瑞垣内の燈籠や拝殿の絵馬も江戸時代の作である。18世紀に出版された「都名所図会」にも描かれ、本殿、拝殿の他に能舞台と楽屋があったことがわかる。その頃本社では祭礼の時に能が奉じられ、小倉能として近郷近在に知られていた。また、氏子による宮座行事も古い様式を今に伝え、能と併せて中世にまでその源を求め得るものである。
昭和63年1月1日
大山崎町文化協会

社頭掲示板



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