向日神社
むこうじんじゃ


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【由緒】

向津日山(向日山)には、山城国乙訓郡向神社(向日神社)、乙訓坐火雷神社(角宮神社)の二社があった。
向神社、火雷神社は、それぞれ上ノ社(上社)、下ノ社(下社)と呼ばれた。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬篤い神社だった。
養老2年(718)向神社(上ノ社)の社殿を改築し、玉依姫命、神武天皇を合祀。同年火雷神社(下ノ社)社殿新築し、玉依姫命と神武天皇を合祀。
承久3年(1221)後鳥羽上皇が、鎌倉幕府討幕のために挙兵し敗れた承久の変により、下ノ社の社殿は焼失している。そのため下ノ社は、神宝、古文書などを上ノ社に預ける。
建治元年(1275)社殿荒廃し、下ノ社の再興はされず、上ノ社に向日神、火雷神、玉依姫命、神武天皇が併祭。
文明16年(1484)現在地に下ノ社は再興され、井ノ内の産土神として祀られる。
明治16年、ご神体は下ノ社(角宮社)に遷されたという。ただ、火雷神の荒御魂は、向日神社の西端の境内末社・増井神社にいまも祀られており、ご神体は井戸という。


【六人部家】

六人部(むとべ)家は、古くは下ノ社の宮司をしていた。承久の変(1221)に火雷神社の神主・六人部氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫は丹波に隠棲した。曾孫・氏貫の代の建治元年(1275)旧里に帰ったが、社殿の頽廃はなはだしく向神社の神主・葛野義益の建議によって、火雷神社の御樋代(ご神体)を向日神社に納めた。
その後六人部家は上ノ社の宮司をも務めるようになった。
六人部是香(むとべ よしか、1798 - 1864)は、幕末の向日神社の神職であり、国学者だった。弟子に、坂本龍馬、副島種臣、中岡慎太郎などを輩出している。


【由緒】

元は二つの神社だった。
鎮守の森に乙訓座火雷神神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)と向日神社の二つの社があった。
1221年後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げて敗れた。承久(じょうきゅう)の乱とも承久の変ともいう。
乙訓座火雷神神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)の宮司は朝廷側について敗れ京都府福知山市にあった荘園「六人部荘(むとべのしょう)」隠れた。許されて戻ったのは1275年、社殿は荒廃していた。
以後向日神社に併祭して向日神社になる。
古代の都「長岡京」は向日神社を取り囲んで造られた
向日神社は京都盆地の南西、乙訓(おとくに)の地にあるこの地の中ほどに南北に延びる丘陵があり、向日神社はその南端にある。 古代この丘は長岡とよばれ、784年この丘を取り囲んで都ができた。「長岡京」である。 都の中心「長岡宮」は向日神社の麓に造られ、東へ200m行ったところに大極殿(たいごくでん)があった。
ご祭神火雷神(ほのいかずちのかみ)は上賀茂神社のご祭神別(わけ)雷神(いかづちのかみ)の親神様
向日神社は古社である。 祀られている火雷神(ほのいかづちのかみ)が「続日本紀」に登場するのは702年だが、いつの頃からあるのかは分からない。 鎮守の森に3世紀末に造られた元稲荷古墳(もといなりこふん)があり、弥生時代の末に高地性集落があった。 火雷神は上賀茂神社のご祭神別雷神(わけいかづちのかみ)の親神様、賀茂氏はこの地から分かれて賀茂の地に住んだ。
賀茂氏がこの地にやって来たのは5世紀の中ごろ、秦氏も同時期にやって来て継体天皇に与力した。 継体天皇が乙訓の宮を造ったのが518年、火雷神を祀ったのもこのころだろう。 宮司の六人部家(むとべけ)は秦氏の出身とされ95代を数える。
邪馬台国と交流があった
もう一柱のご祭神「向日神(むかひのかみ)」は718年この地に遷座した。 500メートル北の五塚原古墳(いつかはらこふん)に祀られていたらしく、この古墳は箸墓古墳(はしはかこふん)の三分の一の相似形で築造年代も近い。 箸墓古墳(はしはかこふん)は卑弥呼(ひみこ)の墓だといわれており、そう考えると向日神は邪馬台国とも交流があった。

公式HP



【府社 向日神社】

本社は元正天皇の御宇養老2年の創建にて。式には向神社及び乙訓坐火雷神と別に記載せり、古くは向神社を上社と云ひ、火雷神社を下社と唱へしを、後宇多天皇の建治元年、火雷神社頽破せるを以て上社に合祀し、今仍相殿に鎮座す、乙訓坐火雷神は神社覈録に曰く、
「祭神建角身命、在所廃亡の後、向日神社相殿に在す(社家説)山城風土記云(釈日本紀所引用)所謂丹塗矢者、乙訓社坐火雷命在賀茂建角身也、
広隆寺由来記云、山城國乙訓郡有一宇社、號乙訓社、今向日明神是也とみえたるは、古今の盛衰を知らすして書せる者也、連胤按るに由來記は世に流布すといへども、心を止めて見る人少し、さては所以ある此神社の廃亡せるを且は歎き且は羨みて、近き頃に至り、好事の徒が、同郡井内村に坐す角宮火雷神社と申しなししを山城名跡志(元禄15年著述)を書し時、初めて其由を記し、山城志(享保19年の著述也)に火雷神社在井内村称角宮見広隆寺記(此記に見えたるなし)と妄に書しを、宣長が主張し、弟國の地の証として古事記伝に挙たるより、昔然る事かと思ひ惑ひ来りたり。從ふべからす」
と、神祇志料に、
「文武天皇大宝2年7月、雨を祈るに微験あるを以て大幣月次幣に預り(続日本紀)聖武天皇天平7年4月神封六石を奉る(新抄格勅符)光仁天皇宝亀5年6月鹿狼の怪あるにより幣を奉り、桓武天皇延暦3年11月。兵部大輔大中臣朝臣諸魚を遣して從五位下に叙され、更に使を遣はして社殿を修理せしめらる(続日本紀)文徳天皇嘉祥3年7月正五位下に叙され、清和天皇貞観元年正月從四位下を授け、7月神宝幣帛を奉り、醍醐天皇延喜の制、名神大社に列り、月次新嘗祈年案上及祈雨の奉幣に預らしむ(延喜式)、向神は素盞鳴尊の御孫大歳命の子にして古くは向日神と書けども、今其の社の在る所を向日町と称せり、覈録に祭神向日神(神祇拾遺)向日町に在す、古事記伝に「古事記、大歳神娶活須毘神之女伊怒比売、生子白日神」とある白は向の誤なる由を云ひ、又土佐日記に「影とのみ頼むかひありて露霜に雨かはりせぬ神のみやしろ」とあり、又中務内侍日記にも「なつかしむ心を知らば行くさきに迎ひの神のいかが見るらん」などありて、向日は皆牟加比に記せり、廣隆寺縁起に「山城國乙訓郡乙訓社(今向日明神也)昔彼社前有一木有一人樵夫、以此机作佛像云々」とあるは、實は乙訓社の事にて、此社の事ならの由覈録に論せり、清和天皇貞観元年正月正六位上向神に從五位下を授く(三代実録)明治10年3月郷社に列し、尋いで10年6月式内社と定められ、同14年4月府社に昇格す、社殿は本殿、拝殿、社務所、御供所、神樂所等を具備し、境内は12162坪(官有地第一種)あり、地高くして眺望に佳なり。

明治神社誌料



【由緒】

向日神社 むかいじんじゃ 
京都府向日市北山。
旧府社。向神・乙訓座火雷神・神武天皇・玉依姫命を祭神とする。向神は素盞嗚尊の孫大歳神の子向日神とされ、養老年間(717−24)に創祀されたと伝え上社と称し、貞観元年(859)従五位下に進んだ延喜式内社である。火雷神は『延宮式』にいう「乙訓社」の祭神といい、貞観元年に従四位上に進み、下社とされたが名神大社(式)。月次、新嘗、祈雨の頒幣にも預かったが、次第に衰微したため健治元年(1275)に至って上社に合祀されたと伝えているが、現在の角宮神社(長岡京市井内鎮座)が乙訓社に当たるとされてきている。向日神社本殿(三間社流造・檜皮葺〉が応永29年(1422)の造営で重文指定のほか、社宝の『日本書紀』(神代巻・下巻一冊)は紙本墨書・枯葉装。もと醍醐寺理性院の所蔵本で、ト部本系に属して南北朝時代の写本とされ、重文に指定されており、ことに木文脇の注釈古訓に見るべぎものがあるといわれている。

神社辞典



向神社

向は牟加比と訓べし、(今ムカフと唱るは音便也)○祭神向日神(神祇拾遺)○向日町に在す、(山城志)例祭4月辰日、○古事記、(神代段)大蔵神娶神活須毘神之女伊怒比売生子、白日神、(旧事紀同じ、旧説に白日神とあるは、向日の誤にて、ムカヒなるべし、神祇拾遺の文にても明也、」神祇拾遺云、正一位向日神、件神系図旧事紀等ニ、大歳神子向日神卜云此ナリ、(宣長云、今向日明神と申し、其処を向日町と云、今は牟加布と唱れども、古は牟加比なりしこと、日の字を添て書にても知べし、中務内侍が日記に云々とあり、其頃までも牟加比と唱へしなり、此内侍は弘安正応の頃の人なり、)
連胤按るに、廣隆寺縁起に、山城國乙訓郡乙訓社、(今向日明神也)昔彼社前有一木、有一人樵夫、以此机作佛像、云々、故知向日明神御作也、云々、といへるは、乙訓社の事にて、既に同社の條下に弁じ置り、さて向日社、(上社と称す)乙訓社(下社と称す)
は同処に鎮坐せしが、承久の乱に乙訓社は頽敗して、其後当社相殿なりしが故に、かゝる誤りも起れるものなるべし、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国正六位上向神從五位下、

神社覈録



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