淀城内にある。古く淀姫社・水垂社という。応和年間(961-64)僧千観内供が肥前の淀大明神を勧請(961-64)。旧水垂町にあり。桂川の水上運輸の守護神として祀る。明治33現地へ遷。この地に古くから住んでいた大与等氏の祖神を祀ったものと思われる。 |
与杼神社神社 豊玉姫命・高皇産霊神・速秋津比売命を祀り、古くは、淀姫社、又は水垂社とも呼ばれていた。 社伝によれば、応和年間(661−64)僧千観内供が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)淀川改修工事のためここに移された。 境内には、本殿、拝殿、神輿倉をはじめ日大神社、長姫社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建築されたもので、国の重要文化財に指定されている。 毎年10月に行われる例祭は「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑わう。 京都市 社頭掲示板 |
由緒・沿革 社伝によると当社の創始は、応和年中(961から963)に僧千観内供が佐賀県(肥前国)佐賀郡河上神(与度日女神)を勧請したのに由来するといわれている。しかし実際にはそれより古く、「三代実録」に貞観元年(859)従五位下の神位を賜ったことがみえ、また延喜の制には小社となっていることから千観が勧請する以前よりあったものと考えられる。旧地は乙訓郡淀村大荒木ノ森、俗に西淀といわれたところで、当社はこの地に古くから住んでいた大与等何々などという住民の祖神を祀ったものと思われる。明治三十三年(1900)に至り、淀川の改修工事のため現在地に移され、淀・納所・水重・大下津の産土神として信仰されている。 本殿、拝殿は慶長12年頃の建立。桃山時代の建築様式をよく保存していたため、昭和46年6月22日国の重要文化財の指定を受けた。しかし、昭和50年8月5日子供の花火遊びにより本殿が焼失、拝殿のみが近辺でただ一つの重要文化財建造物として往時の威容をとどめている。 昭和58年解体修理工事が施され「コケラ葺」屋根に現状変更がなされた。更に昭和59年度これに防災施設工事が追加完了した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
与杼神社 與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。 祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。 この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。 元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった) 桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。 なかでも本殿・拝殿は明治年間に移築・遷座が行われたにも拘らず、良く当初の建築様式を保存していたので、昭和46年6月22日(同年3月26日内定)に本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。 しかし、残念ながら本殿は、昭和50年8月5日午後4時30分頃、未成年者達の花火(飛翔性花火)遊びにより国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。 その後、氏子・崇敬者各位の熱烈なご助力のお陰をもちまして、現在の本殿は昭和55年3月23日滞ることなく予定通り竣工。 あわせて與杼神社が、この地に遷座された明治33年(1900年)より数えて、丁度100年にあたるのを記念して、平成12年(2000年)9月に社務所が新築されました。 公式HP |