與杼神社
よどじんじゃ


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   【社名】吉田本與杼神社、金剛寺本與杼神社とある。
       『山城志』『山城名勝志』では與度神社としている。このほか水垂社の名称もあつた。


   【榎本氏】かつての鎮座地は乙訓郡榎本郷ともされ、社には豪族・榎本氏の祖神が祀られていたともいう。
        榎本氏は古代(飛鳥時代-平安時代)の氏のひとつ、伴氏(大伴氏)と同族とされ、榎本氏はその分家とされる。



   【神輿渡御】江戸時代、淀祭りの神輿渡御は神輿3基で行われ、21日に大下津御旅所より出輿し、
         23日に新町旅所、納所、水垂村を経て還輿していた。
         近代の淀城跡への移転後も、御旅所(水垂の旧神社跡)への3基の渡御が行われていた。当時は桂川での船渡御(船渡し)
         だった。
         巡行の際に神輿の順序が逆になる場合があり、「あとが先になる淀祭り」といわれた。
         太平洋戦争中、渡御は中断される。戦後に一旦復活したが、船渡しではなく宮前橋を担いで渡っていた。
         1958年、引き手の事故により渡御は中断する。2002年に復興され、2006年に2基目の神輿修理が行われた。
         2008年からは3基の神輿が復活している。



【郷社 與杼神社】

本社は創建年代詳かならず、神社覈録に「祭神淀姫神(社記)水垂村に在す、今は紀伊郡に属す(山城志)例祭9月10日、明徳記に、山名陸奥守氏清は二千余騎、淀大明神御前に浮橋を掛て、久我縄手を直違に、西ノ岡を経て、下桂へ打て出とあるも、今の社地によく符合せり」とあり、又、三代実録に「貞観元年正月27日、正六位上與杼神奉授従五位下」五畿内誌に「輿杼神社、貞観元年春正月、奉授從五位下在水垂村、有正殿礼舞殿云々」とあり、而して古は社領御朱印高拾九石、又社人領捨四石ありき(神社覈録)神紙志料に「肥前與止日女神を祀る」として、水垂社縁起の説を挙ぐ、蓋し日女命は神功皇后の御妹なるが、全龍寺開山千観阿閤梨殊に崇敬し、其祀られざるを慨し、遂に許可を得て、応和年中肥前佐嘉郡河上社より此社に勧請す、時に村上帝特に正一位淀姫大明神の欝号を賜はる(水垂社繰起)と称すれど、與杼神社は式内社にして、応和年間に勧請したるが如きものに非す、されど、肥前與止日女神と同神なる事は、旧来の社伝なるべしといふ、明治元年旧淀藩より式内水度神社と改められ、同6年6月郷社となり、同10年6月式内神社與杼神社と公定、同33年同町下ノ町より移転許可せらる、社殿は本殿、拝殿、割拝殿等を具備し、境内1256坪(官有地第一種)あり。

明治神社志料



與杼神社

與杼は假字也○祭神淀姫神(社記)○水垂村に在す、今は紀伊郡に属す、(山城志)例祭9月10日、○明徳記に、山名陸奥守氏清ハ、二千除騎、淀大明神御前ニ浮橋ヲ掛テ、久我縄手ヲ直遠ニ、西ノ岡ヲ経テ、下桂ヘ打テ出、とあるも、今の社地によく符合へり、
類社
肥前国佐嘉郡與止日女神社
連胤按るに、こはもとより同神也、似下此頻は更に弁ぜず、爰に倣ふべし、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國正六位上與度神從五位下、

神社覈録



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