桂川の東岸地区、羽束師川の西岸に接した平坦地にある。叢林は遠くよりよく目立つ。 延喜式・臨時祭「祈雨神祭」85座に列し、雨乞いに験ある社として知られていた。 |
羽束師略記 御鎮座と由緒 当社の御鎮座は、雄略天皇21年丁己(477)です。「続日本紀」大宝元年(701)4月3日条に「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」とあって、羽束師神社についてみえる最も古い記録ですが、「三代実録」貞観元年(859)9月8日条には、「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風を鎮め、潤雨を祈願する神さまとして崇敬されていたことがうかがえます。近年当社西方の長岡京四条四坊に当る旧址から、祈願の際献じる土馬が発掘され、話題を呼んだのは興味深いことです。 この地は桂川及び旧小畑川等諸河川の合流点に位置し、低湿地ですが、古くから農耕が行われ且、水上交通の要地という条件と相まって、「乙訓・羽束郷」(和名抄)と称し開けてきた土地です。 因に、日本書紀垂仁天皇39年「冬10月(中略)泊橿部等并せて十箇の品部(とものみやつこ)もて五十瓊敷皇子に賜う」と記され又、「令集解」の職員令の中には「泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とあります。何れにしても、「はつかし」と名乗る職業をもった人々の集団が、大宝令制に組み入れられる以前から、この地域に生活していたということが分かります。更に御所の野菜を供給する羽束師薗もあった処で、これらのことが、神社の発展をもたらした理由になったと考えられます。 平安初期延喜の制がととのえられるや当社は、式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣に預かって、名実共に式内第一の社となり、「むすび」の御神威を愈々顕現され、天下豊平の加護を垂れ給うたのです。 中世・近世において、周辺地域の産土神として崇敬を集めたことは「都鄙祭事記」中の「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」という記事からも推察できます。 「大乗院寺社雑事記」文明14年(1482)9月1日条に「8月27日28日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職となって神事能を演じた事、またこの神事は近郊に聞えた盛大なものであったらしく楽頭の得分は百貫と記されています。氏子圏の広さとその豊かさを物語っています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
羽束師坐高産日神社御祭神 高皇産霊神〔タカミムスヒノカミ) 神皇産霊神(カミムスヒノカミ) 【御鎮座】 当神社は雄略天皇21年(477)に創祀され生成霊力の御神徳をおもちの皇産霊神二柱を奉斉しています。皇産霊を「ミムスヒ」と言い「ムス」はものの生成を意味し、成長するカを「ヒ=霊力」と言います。叉、高皇産霊神は高木神とも申し、神の依ります神体木(神墨)に縁の深い御名で明らかに田の神の降臨をあおぐ祭に関わりのある農耕神の信仰をになう天つ神であります。随って五穀豊穣を祈る人々の間に稲霊を崇めるムスピ信仰が育まれ、特に収穫時に新穀を神と共に新嘗(ニイナメ)する農耕行事は最も重要な祭儀として、高皇産霊神、神皇産霊神が祀られてきた。この行事は弥生時代から現在まで時代の変遷を超え種々の文化要素を習合しつつ新嘗祭となり勤労感謝の日となって今猶生活の中に伝承されています。続日本紀大宝元年(701)4月3日の条に「勅して山背国波都賀志の神等の神稻は自今以後中臣氏に給へ」とあるのは当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料といえます。 【十一社】 本殿の左右に天照皇大神を始め十一神が祀られています。 大同3年(808)に斎部廣成公が諸国騒擾の多さ様を憂い安穏を祈願する為、平城天皇の奏聞を得て勧請造営された神社です。 廷喜の制では(967)大社に列格され四時祭には官幣に預り臨時祭は祈雨神に座して天下豊年の御加護を垂れ給いました。 【北向見返天満宮】廷喜元年(901)右大臣菅原道真公、筑紫へ左遷の砌当社に参詣「君臣再び縁を結び給へ」とこ祈念の上 捨てられて思ふおもひのしげるおや 身をはつかしの杜といふらん の歌をご詠進になり下向されました。菅公の御徳を慕い一の鳥居の東縁の地に社を営み北向見返天満宮が奉斎されました。 社頭掲示板 |