羽束師坐高産日神社
はずかしにますたかみむすびじんじゃ


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   【祭神】続日本紀・大宝元年4月に「波津賀志神」とあって、本来の祭神はハツカシ神であろう。
       ハツカシ神の出自・神格ははっきりしないが、当地が桂川・鴨川など何本かの河川の合流地点に立地することから、
       河道を安定させて氾濫を防ぎ且つ順調な水の供給を司る水神であるとともに、その水による穀物生産を司る農耕神・豊饒神
       であったと思われる。
       また、当社祭祀氏族が泊橿氏であったとすれば、ハツカシ神とは、羽束首の祖神・天足彦国押人命あるいは男彦姥津命
       とも考えられるが、部民・ハツカシ集団が奉斎した自然神と見られる。


   【由緒】文政10年(1827)当社の神主古川爲猛の著作『羽束師社旧記』には雄略天皇21年創建、
       欽明天皇28年(567)桂川の洪水に際し、当社の人民水中にありながら何の恙もなかつたゝめ天皇より封戸を賜はり、
       天智天皇4年(665)中臣鎌足に勅あつて当社の再建が営まれ、大同3年(808)には齋部広成の奏聞を経て、
       摂社11社が勧請されたとある。
       延喜元年(901)菅原道真は筑紫への左遷の折に当社を参詣している。
       「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 社といふらん」と詠んだという。
       境内には、道真にまつわるという北向見返天満宮が祀られている。


   【羽束師川】境内西には、西羽束師川が流れている。江戸時代、1809年から1825年まで17年の歳月をかけ、
         当社の神官だった古川為猛は、私財を投じ人工水路羽束師川(12q)を開削した。川は、久我から古川、桶爪、水垂、
         大下津、山崎を経て桂川に注いでいる。
         新川の開削、古水路の改修、樋門などが設置されたことにより、水害の被害を免れ、それまでの桂川右岸の低湿地帯は
         耕作地に変わった。偉業を称え、本流、支流は当社に因み、羽束師川と名づけられたという。



   【羽束師の森】鎮守の森は、かつて「羽束師の森」といわれ、歌枕にもなっていた。
          いまも境内にはクスの大木が幾本も植えられ、森の面影はわずかに残っている。




【郷社 羽束師坐高御産日神社】

本社は雄略天皇21年の創建なりと伝へられ、神祇志料に「今古川志水二村の界羽束石森にあり(山城名勝志神名帳考証)とし、覈録に「古川村の北方に在す(名跡志)」とあるものこれ也、即ち延喜式内山城國乙訓郡羽束師坐高御産日神社なり、斯の神は造化三神の一にして、天地初発の霊なりとそ、神紙志料に「高御産日神別名を高木神と申す、此神天照大御神と相並ばして天日嗣を皇孫命に傅へ、詔命のらして天降し奉り給ひき、故此二柱大神等を称奉りて皇親神漏岐命神漏美命と申せり(古事記延喜式)顕宗天皇の御世、月神人に着りて民地を我祖高産霊尊に献れと言誨給ふを以て、即葛野郡歌荒巣田を奉り、壱岐縣主ノ祖押見宿禰をして祠に仕へ奉らしむ(日本書紀)文武天皇大宝元年4月勅して、此神の神稻今より後中臣氏に賜ふべく制給ひ(続日本紀)平城天皇大同元年神封四戸を寄せ(新抄格勅符)清和天皇貞観元年9月雨風の御祈の為に使を遺して幣を奉り、(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、月次新嘗祈年案上及祈雨の幣に預る(廷喜式)」といふ、而るに当社の叙位に預らぬ次第につき、覈録に「連胤按るに、高御産日神は神紙官八神の中に座て、殊更に崇め給ふは誰も知る処也、扨当社は葛野座月読神社、同郡木島坐天照御魂神社に相対へたるに、叙位に預り給はぬを思ふに、対馬鳥下県郡に坐するを本社とし、且神祇官にて極位を授けられたれば、准らへてありしなるべし」と説けり、而して天智天皇4年に、藤原鎌足公勅を奉じて再建し、後又桓武天皇の延暦3年11月遷都に際し再建あり、平城帝の大同3年12月、齋部広成奏聞を経て摂社十一社を建てたり、本社所在地は即ち古川の北志水の西にして、羽束師森といふ、樹木鬱蒼として天に参し、古代の風致を失はず、続捨遺俊成卿の歌に、「もらしても袖やしほれぬ数ならむ身をはつかしの森の雫は」又「忘られて思ふ歎きのしけるをや身をはつかしの森と云らん」(後撰集)などありて、其の著名なる神社たるを知る、而して明治6年6月村社に列し、同10年10月式内羽束師坐高御産日神社と決定し、郷社に昇格す、社殿は本殿、前拝、拝殿、神輿舎等を有し、境内1812坪(官有地第一種)あり。

明治神社志料



羽束師坐高御産日神社 大月次新嘗

羽束師は、波豆賀之と訓べし、和名砂、(郷名部)羽束、(假字上の如し)○高御産日は、多加美武須毘と訓べし、日本紀(神代上)皇産霊此云美武須毘とあるに同じ、○祭神明か也(社家説に、天児屋命、相殿猿田彦といふ、今從はす、)○古川村北方に在す、(名跡志)例祭4月巳日、○式三、(臨時祭)祈雨神八十五座(並大)云々、羽束石社一座、○日本紀、顯宗天皇3年2月丁巳朔、阿閇臣事代、銜命出使于任那於是月神著人謂之曰、我祖高皇産霊、有預溶造天地之功云々、4月丙申朔庚申、日神著人、謂阿閇臣事代曰、以磐余田献我組高皇産霊、事代奏、依神乞献田十四町、対馬下縣直侍祠、
類社
神儀官坐高御産日神、(大月次新嘗)大和國添上郡宇奈太理坐高御魂神社、(大月次相嘗新嘗)同國十市郡目原坐高御魂神社二座、(大月次新嘗)対馬島下縣郡高御魂神社、(名神大)
連胤按るに、こは皆同神なるべし、同名異神ある事いまだ考へず、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、山城國羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉、
雑事
続日本紀、大宝元年4月丙午、山背國波都賀志神神稻、自今以後給中臣氏、
連胤按るに、高御産日神は神祇官八神の中に坐て、殊更に崇め給ふは誰も知るところ也、さて当社は葛野郡葛野坐月読神社、同郡木島坐天照御魂神社に相対へたるに、叙位に預り給はぬをおもふに、対馬島下縣郡に坐すを本社とし、かつ神舐官にて極位を授けられたれば、准らへてありしなるべし、

神社覈録



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