平神社
ひらのじんじゃ
八幡宮神社 境内社
所在地 社名















   【延喜式神名帳】平神社 対馬島 下県郡鎮座
          (本社)八幡宮神社

   【現社名】平神社
   【住所】長崎県対馬市厳原町中村645
       北緯34度12分23秒、東経129度17分21秒
   【祭神】天穗日命 日本武尊 仁徳天皇 菟道皇子
   【例祭】8月15日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】元慶3年)879)対馬嶋平野神従四位下
       明治13年10月12日村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

神社明細帳に「瓊々杵尊の朝、天日神命対馬縣主たりし時、其祖天穗日命を祭られしなり。然るに後日本武尊、仁徳天皇、菟道皇子の三神を加祀す。今一神毎に神祠社號を置。即ち天穂日命の社を阿麻底留神社と称し、日本武尊の社を軍殿神社、仁徳天皇の社を若宮神社と称し、菟道皇子の社を新霊神社と称す。」とあり、これは府内八幡宮の旧摂社の四社を合わせて一社とし、平神社を創り出したものと思われる。
本来の平神社が何処に鎮座し、どのような由緒があったのかは不詳。


由緒

八幡宮神社由緒記
神功皇后新羅征伐畢らせ給いて凱還の時、下県郡与良の地、今の厳原に着御清水山を叡覧あり、此の山は神霊の止まりぬべき山なりと宣い、御行幸ありて巌上に御鏡と幣帛を置き皇后親から天神地祇を祭り給い、永く異国の寇を守り給へと祈り給い、神籬磐境を定め給い、「朕が霊も共に此の山に止まらんと宣い」し霊蹟なり。因って天武天皇白鳳4年の勅により同6年此の地に宮殿を造らしめ給い、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰5柱の神霊を御鎮祭ありて八幡宮と称し奉る。
八幡宮と称するは皇后新羅征伐に持たせたまへる御旗8流を残し給いしによる。明治7年6月社格郷社に列せられ、大正5年11月に県社に昇格、同年2月に神饌幣帛供進神社に指定せらる。
明治初年に和多都美神社と称したりしを明治23年8月に訂正を許可せられ八幡宮神社と号するに至れり。
例祭日
旧暦8月13日、旧暦8月14日、旧暦8月15日
特殊神事
神幸式、放生会
境内坪数
境内地5328坪
建築物
神殿(流造檜皮葺)、幣殿、拝殿、社務所、楼門、神庫などあり。
宝物殿(昭和53年5月より開館、一般へ公開す)
絵馬堂あり絵馬を収納す

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




平神社

社号平神社(ヒラノジンシヤ)
式内大社 旧村社
祭神  天穂日命 日本武尊 仁徳天皇 菟道皇子
由緒
瓊々杵尊の神朝天日神命をして津島県主たりし其の任中に祖神天穂日命を祭られしなり然る後日本武尊仁徳天皇菟道皇子の三神ヲ加祭す
延喜式神名帳に載る下県郡平神社是なり
例祭日 旧暦8月15日
右軍殿社 日本武尊
中若宮社 仁徳天皇
左神霊社 菟道皇子

社頭掲示板



平神社

平神社
天穗日命,日本武尊,仁徳天皇,莵道皇子
社号 平神社 旧村社祭神 天穗日命 仁徳天皇 日本武尊 莵道皇子
例祭日 旧暦8月15日
本社は瓊々杵尊の朝天日神命津島県主たりし時に祖神天穂日命を祭られしなり其の後日武尊仁徳天皇莵道皇子の三神を加祭す。
延喜式神名帳にのる下県郡平神社是なり。
明治13年10月12日 社格村社に列せらる。

社頭掲示板



郷社 八幡宮

延喜式神名帳に、対馬島下縣郡和多都美神社とある是なり、神功皇后韓國より御凱旋の途次、此地に着かせたまひ、伊豆原に御輿を止め、仰ぎて清水山を眺めたまひて、此山は、神霊の止りゐます所なりと宣ひて、其山に登りたまひ、石上に御鏡と幣帛を置きて、自ら天神地祇を齋き、和多都美神を祀りて、異國の寇を防ぎたまはん事を祈り、神離、磐境を定めだまひ、又吾御魂も共に此山に止らんと宣ひき、降りて白鳳6年、天武天皇の勅命を以て、初めて祠を建て、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の神霊をも合祀せしめたまへりと、神名帳考証に「和多都美神社(名神大)國府八幡宮此社歟、神功皇后」と見え、神社覈録に「和多都美は仮字、海童神歟(考証、神功皇后といふ、今從はず)府中に在す、今國分八幡宮と称す、式三(臨時祭)名神祭285座、対馬島和多都美神社一座、当国上縣郡和多都美神社(名神大)当郡和多郡美神社小、神位、続日本後紀、承和4年2月戊戌対馬島下縣郡無位和名都美神奉授從五位下、三代實録、貞観12年3月5日丁巳、授対馬島從五位上和多都美神正五位下とあり、神紙志料に「和多都美神社、今屋敷町清水山に在り、國府八幡と云ふ、綿積豊玉彦神を祀る、伝へ云ふ、神功皇后韓國より凱旋してこの神を祀り給ふ所也」と云ひ、次に貞観の叙位を挙げて後、「醍醐天皇延喜の制、名神大社に列る」と云へり、地名辞書に曰く、「今國府八幡宮と云ふ、嚴原の屋敷町清水山の下に在り、脇宮平神は、続後紀、承和8年、無位平神に從五位下を授けたまふとある者是也、按するに、対州に和多都美神数座ありて、後世皆八幡神と称す、蓋古伝の遺れるに由る、八幡神は古へ応神天皇を祭る者にあらずして、彦火々出見尊を祭る、八幡の比売神は、即海神豊玉姫を云ふのみ、大同類聚方に、対馬國忍海造大國といふ人名を載す、此國にも海部の部族ありて、之を統領せる忍海造の居りしを知る、和多都美神は直に海部の氏神とも見做すべし」、紀略に云く、「本州には木坂八幡を本宮とし、或は上八幡と呼び、府中の八幡を新宮とし、黒瀬なるを城八幡と云ふ、社説は、本宮は継体天皇の時建立、新宮は天武天皇の時とし、いつれも八座の神を祭ると、東鑑に、対馬守源親光、八幡宮以下の鎮守、六十余社の宝殿を修理する事を載す、府中八幡の楼門棟札に、此八幡は鶴岡より勧請すとあるは誤れり」、紀に云く、「國府八幡ば下津綿津見宮とも云ひ、先妻の前、新妻の前に八幡神を合せ祀る、先妻新妻は、海神の女玉依姫豊姫をさし奉る、文明8年の棟札に、当社は雍州男山八幡宮の原廟と記す、甚ゝ詐也、本社に鐘楼あり、古鐘を懸く、口径一尺八寸六分、長二尺四寸、此鐘は其図を見るに、謂ゆる竜宮形の制なり、竜頭に旗差あり、九乳鐘座はあれと、袈裟形なし、天人の模様を鋳たり)銘略す」古文書に、大治3年権大掾阿比留真貞神田を奉り、放生曾の用途に充つ、是れ父己基の奉りし所を、父忠好違乱しければ也と見ゆ、又本社の側に平神社あり、俗に軍殿と云ふ、日本武尊を祭る。紙園社あり、是に延喜式宇努神なるべし、此八幡の供僧は、往時太平寺の住侶之を勤めたりと見え、又太宰管内志に「和多都美神社、延喜式に下縣郡和多都美神社(名神大)あり、三代實録十七巻に、貞観12年3月5日(丁己)授対馬島和多都美神從五位上とあり、(此郡に、「和多都美ノ神と云ふは別にもあれど、此神名神大とあれば、神位を授けたまへるは此方と聞ゆ)玉勝間に、下縣郡和多都美神社は國府にあり、神階正四位上、今は八幡宮と申す、地図に、下縣郡和多都美神社は宗像神社と號す、祭神市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命、與良郷鶏知村にあり、住吉神社の境内なりなどある、常足按ずるに、宗像三神を祭りて和多都美神とすと云は誤りなるべし、綿津見ノ神は、神功皇后三偉御征代の時に功をなしたまへる神なれば、其比にや祭り初めたまひけん、三韓征伐の時に海神功をなし給へる事、上巻にもいへるが如し」と云へり、合せ考ふべし、中頃八幡宮と称したりしが、明治5年和多都美神社の旧に復し、同7年6月郷社に列る、同24年更に八幡宮と改む。社殿は本殿、拝殿を備へ、境内28081坪(官有地第一種)を有し、緑樹之を囲めり、宝物は古文書一通(応永年間の物)神鏡一面、古鈴五個、能面六枚、扁額二面(道風書)甲冑一領、太刀一口、木像四体等あり。
図に、鶏知村にも神社のさまをかけり、今の住吉の神社のことなるべし」となり、尚能く考合すべし、後村上天皇の康永元年9月13日、太宰府の命により、放生曾神事を興したりといへば、古來崇敬の名社たりしを知るに足る、明治7年6月郷社に列る。
社殿は本殿、拝殿を備へ、境内1002坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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