八幡宮神社
はちまんぐうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】和多都美神社(名神大) 対馬島 下県郡鎮座
          (境内社)宇努刀神社
          (境内社)平神社

   【現社名】八幡宮神社
   【住所】長崎県対馬市厳原町中村645
       北緯34度12分23秒、東経129度17分21秒
   【祭神】応神天皇 神功皇后 仲哀天皇 姫大神 武内宿禰
   【例祭】8月14-15日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】白鳳6年(655)宮殿造立
       嘉暦3年(1328)造営
       文明8年(1476)造営
       明治4年「和多都美神社」と称
       明治7年6月郷社
       明治23年8月27日「八幡宮神社」と改称
       大正5年11月26日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「府内八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所・楼門

   【境内社】伊勢宮神社・金刀比羅神社・平神社・宇努力神社
        天神神社・軍殿社・若宮社・神霊社


社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったという。655年(白鳳6年)、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝える。
明治4年式内名神大社「和多都美神社」に比定されて和多都美神社と改称し、対馬国一宮であるとしたが、明治23年に元の八幡宮に戻して地名から「厳原八幡宮神社」とし、現在は式内社・対馬国一宮と称していない。


由緒

神功皇后新羅征伐畢らせ給いて凱還の時、下県郡与良の地、今の厳原に着御清水山を叡覧あり、此の山は神霊の止まりぬべき山なりと宣い、御行幸ありて巌上に御鏡と幣帛を置き皇后親から天神地祇を祭り給い、永く異国の寇を守り給へと祈り給い、神籬磐境を定め給い、「朕が霊も共に此の山に止まらんと宣い」し霊蹟なり。因って天武天皇白鳳4年の勅により同6年此の地に宮殿を造らしめ給い、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰5柱の神霊を御鎮祭ありて八幡宮と称し奉る。
八幡宮と称するは皇后新羅征伐に持たせたまへる御旗8流を残し給いしによる。明治7年6月社格郷社に列せられ、大正5年11月に県社に昇格、同年2月に神饌幣帛供進神社に指定せらる。
明治初年に和多都美神社と称したりしを明治23年8月に訂正を許可せられ八幡宮神社と号するに至れり。
例祭日
旧暦8月13日、旧暦8月14日、旧暦8月15日
特殊神事
神幸式、放生会
境内坪数
境内地5328坪
建築物
神殿(流造檜皮葺)、幣殿、拝殿、社務所、楼門、神庫などあり。
宝物殿(昭和53年5月より開館、一般へ公開す)
絵馬堂あり絵馬を収納す。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




八幡宮神社

社号 
八幡宮神社(通称厳原八幡宮神社トモ云フ)旧県社
祭神
神功皇后
仲哀天皇
応神天皇五柱
姫大神
武内宿禰
由緒
神功皇后新羅征伐畢ラセ給ヒテ凱還ノ時下県郡与良ノ地今ノ厳原二着御清水山ヲ叡覧アリ此ノ山ハ神霊ノ止マリヌベキ山ナリト宣ヒ御行幸アリテ巌上二御鏡ト幣帛ヲ置キ皇后親カラ天神地祇ヲ祭リ給ヒ永ク異国の寇ヲ守リ給ヘト祈リ給ヒ神籬磐境ヲ定メ給ヒ「朕ガ霊モ共二此ノ山二止マラント宣ヒ」シ霊蹟ナリ因ツテ天武天皇白鳳四年ノ勅ニヨリ同六年此ノ地二宮殿ヲ造ラシメ給ヒ応神天皇神功皇后伸哀天皇姫大神武内宿禰五柱ノ神霊ヲ御鎮祭アリテ八幡宮ト称シ奉ル
八幡ト称スルハ皇后新羅征伐二持タセ給ヘル御旗八流ヲ残シ給ヒシニヨル
明治七年六月社格郷社二列セラレ大正五年十一月二県社二昇格同年二月二神饌幣帛供進神社二指定セラル
明治初年二和多都美神社ト称シタリシヲ明治二十三年八月二訂正ヲ許可セラレ八幡宮神社ト号スルニ至レリ

由緒書



八幡宮神社

社号 八幡宮神社 (厳原八幡宮神社)旧県社
祭神 神功皇后 仲哀天皇 應神天皇 姫大神 武内宿禰
例祭日 旧暦8月13日 前夜祭 旧暦8月14日 前夜祭 旧暦8月15日 本祭 神幸式放生会
本社は神功皇后三韓御征伐の時対馬國に御着船ありて上県郡和珥の津より三韓に渡り給ひ三韓を平げ給ひて凱還の時清水山に行幸ありて此の山は神霊の止まるべき山と宣ひ神鏡と幣帛を岩上に置き皇后親から天神地祇を祭りて永く異國の寇を守り給へと祈り給ひて神籬磐境を定め給ひし所と伝ふ。天武天皇白鳳4年の勅によりて同6年茲に宮殿を造らしめ給ひて五柱の御神霊を鎮祭ありて八幡宮神社と稱し奉る。明治7年6月社格郷社に列せられ大正5年11月26日県社に昇格す。

社頭掲示板



郷社 八幡宮

延喜式神名帳に、対馬島下縣郡和多都美神社とある是なり、神功皇后韓國より御凱旋の途次、此地に着かせたまひ、伊豆原に御輿を止め、仰ぎて清水山を眺めたまひて、此山は、神霊の止りゐます所なりと宣ひて、其山に登りたまひ、石上に御鏡と幣帛を置きて、自ら天神地祇を齋き、和多都美神を祀りて、異國の寇を防ぎたまはん事を祈り、神離、磐境を定めだまひ、又吾御魂も共に此山に止らんと宣ひき、降りて白鳳6年、天武天皇の勅命を以て、初めて祠を建て、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の神霊をも合祀せしめたまへりと、神名帳考証に「和多都美神社(名神大)國府八幡宮此社歟、神功皇后」と見え、神社覈録に「和多都美は仮字、海童神歟(考証、神功皇后といふ、今從はず)府中に在す、今國分八幡宮と称す、式三(臨時祭)名神祭285座、対馬島和多都美神社一座、当国上縣郡和多都美神社(名神大)当郡和多郡美神社小、神位、続日本後紀、承和4年2月戊戌対馬島下縣郡無位和名都美神奉授從五位下、三代實録、貞観12年3月5日丁巳、授対馬島從五位上和多都美神正五位下とあり、神紙志料に「和多都美神社、今屋敷町清水山に在り、國府八幡と云ふ、綿積豊玉彦神を祀る、伝へ云ふ、神功皇后韓國より凱旋してこの神を祀り給ふ所也」と云ひ、次に貞観の叙位を挙げて後、「醍醐天皇延喜の制、名神大社に列る」と云へり、地名辞書に曰く、「今國府八幡宮と云ふ、嚴原の屋敷町清水山の下に在り、脇宮平神は、続後紀、承和8年、無位平神に從五位下を授けたまふとある者是也、按するに、対州に和多都美神数座ありて、後世皆八幡神と称す、蓋古伝の遺れるに由る、八幡神は古へ応神天皇を祭る者にあらずして、彦火々出見尊を祭る、八幡の比売神は、即海神豊玉姫を云ふのみ、大同類聚方に、対馬國忍海造大國といふ人名を載す、此國にも海部の部族ありて、之を統領せる忍海造の居りしを知る、和多都美神は直に海部の氏神とも見做すべし」、紀略に云く、「本州には木坂八幡を本宮とし、或は上八幡と呼び、府中の八幡を新宮とし、黒瀬なるを城八幡と云ふ、社説は、本宮は継体天皇の時建立、新宮は天武天皇の時とし、いつれも八座の神を祭ると、東鑑に、対馬守源親光、八幡宮以下の鎮守、六十余社の宝殿を修理する事を載す、府中八幡の楼門棟札に、此八幡は鶴岡より勧請すとあるは誤れり」、紀に云く、「國府八幡ば下津綿津見宮とも云ひ、先妻の前、新妻の前に八幡神を合せ祀る、先妻新妻は、海神の女玉依姫豊姫をさし奉る、文明8年の棟札に、当社は雍州男山八幡宮の原廟と記す、甚ゝ詐也、本社に鐘楼あり、古鐘を懸く、口径一尺八寸六分、長二尺四寸、此鐘は其図を見るに、謂ゆる竜宮形の制なり、竜頭に旗差あり、九乳鐘座はあれと、袈裟形なし、天人の模様を鋳たり)銘略す」古文書に、大治3年権大掾阿比留真貞神田を奉り、放生曾の用途に充つ、是れ父己基の奉りし所を、父忠好違乱しければ也と見ゆ、又本社の側に平神社あり、俗に軍殿と云ふ、日本武尊を祭る。紙園社あり、是に延喜式宇努神なるべし、此八幡の供僧は、往時太平寺の住侶之を勤めたりと見え、又太宰管内志に「和多都美神社、延喜式に下縣郡和多都美神社(名神大)あり、三代實録十七巻に、貞観12年3月5日(丁己)授対馬島和多都美神從五位上とあり、(此郡に、「和多都美ノ神と云ふは別にもあれど、此神名神大とあれば、神位を授けたまへるは此方と聞ゆ)玉勝間に、下縣郡和多都美神社は國府にあり、神階正四位上、今は八幡宮と申す、地図に、下縣郡和多都美神社は宗像神社と號す、祭神市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命、與良郷鶏知村にあり、住吉神社の境内なりなどある、常足按ずるに、宗像三神を祭りて和多都美神とすと云は誤りなるべし、綿津見ノ神は、神功皇后三偉御征代の時に功をなしたまへる神なれば、其比にや祭り初めたまひけん、三韓征伐の時に海神功をなし給へる事、上巻にもいへるが如し」と云へり、合せ考ふべし、中頃八幡宮と称したりしが、明治5年和多都美神社の旧に復し、同7年6月郷社に列る、同24年更に八幡宮と改む。社殿は本殿、拝殿を備へ、境内28081坪(官有地第一種)を有し、緑樹之を囲めり、宝物は古文書一通(応永年間の物)神鏡一面、古鈴五個、能面六枚、扁額二面(道風書)甲冑一領、太刀一口、木像四体等あり。
図に、鶏知村にも神社のさまをかけり、今の住吉の神社のことなるべし」となり、尚能く考合すべし、後村上天皇の康永元年9月13日、太宰府の命により、放生曾神事を興したりといへば、古來崇敬の名社たりしを知るに足る、明治7年6月郷社に列る。
社殿は本殿、拝殿を備へ、境内1002坪(官有地第一種)を有す。

明治神社志料



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