『魏志』(倭人傳)には、対馬の民が船に乗つて、南北に市躍したことを記してゐるが、この南は九州、北は朝鮮と解されてゐる。そこで高濱と、樽ケ濱の両面に船着場をもつてゐる鶏知が、南北に市躍する対馬の中心地として榮へ、畿内の朝廷に服属した縣直が、此の地に居所を構へてゐたものと見られる。「式内写調査報告」 住吉明神の名があるからには、本来の祭神は表筒之男、中筒之男、底筒之男の住吉三神であると考えられる。 |
住吉神社 式内社の住吉神社とされる。鴨居瀬の住吉神を遷すとある。延喜時代(901年以前)の勧請と云うことだろう。 康永元年(1342)太宰府の命令により、放生会神事を再興している。神功皇后が新羅から帰還の折に鶏知の行宮に入り、和多都美神社を造営したが、当社はその神社であるが、白江山の住吉神社が合祭されたと、阿比留家に伝わる中世文書にある。住吉=和多都美+八幡ということか。 筒には星の意味があるのは金星を夕つつと呼ぶことからも明かで、星こそ航海の重要な目印であり、海の守り神として相応しい。オリオン座の三ツ星の神格化が三筒男と思われる。住吉大神は『日本書紀』(神功皇后紀)で、住吉三神を形容して、海草のように若々しく生命に満ちている神と称えているが、まさに少童神であり、不合尊である。 神功皇后が黒瀬の城山に登り四方を眺望した時、東方から鶏の鳴き声が聞こえたので、村のあることを知り、当地に宮を造営した。 在庁官人の阿此留氏の居館とされる跡がある。神主家。弘仁年間(810〜824)対馬に来寇した刀伊賊を討つため、上総国畔蒜郡に配流されていた比伊別当国津の子らが勅命を受けて来島、その軍功で掾官となり対馬にとどまって阿比留氏と称した。遠祖を蘇我満智とする。 社頭掲示板 |
出居塚古墳 長崎県指定史跡「出居塚古墳」 対馬の東海岸、美津島町の鶏知浦の西方にある丘陵に位置する出居塚古墳は、長峻県で唯一の前方後方墳てす。 この古墳の形態は九州地方には少なく、主に山陰・北陸地方に多くみられます。石室内部は盗掘されており原形は不明ですが、竪穴式石室と考えられています。昭和26年の発掘調査では銅鏃12本、碧玉製管玉1個、鉄剣片2本分土器片1点が出土しています。石室は礫を積んで、竪穴式石室を形成したとみられ、長さ4m、幅2m、深さ,0.9mほどあります。本古墳の東岸には、昭和51年に国史跡に指定された根曽古墳群があり、前方後円墳3基、円墳2基、から形成されています。 対馬における最古最大の前方後方墳てある本古墳は、出土遺物から4世紀後半に築かれたと考えられ、根曽古墳を含めて6世紀頃まで鶏知を本拠地として対馬を支配していた対馬県直(日本書記顕宗紀3年2月条に確認できる)を埋葬したと考えられています。畿内大和政権の傘下にあった対馬県直がこの地を本拠として対馬を支配していたことがうかがえます。 〇指定年月日 平成14年2月26日 〇墳丘の現模 全長40m 〇後方部高さ3.7m 〇前方部高さ1.2m 〇前方部長さ 21m 〇後方部長さ19.5m 〇前方部幅4m 〇特徴 前方後方墳 〇竪穴式石室 〇時代 4世紀前半〜末 〇出土遺物 銅鏃12本〔6本は厳原町資料館に展示〕 平成15年3月 長崎県教育委員会・美津島町教育委員会 社頭掲示板 |
郷社 住吉神社 延喜式に、対馬島下縣郡住吉神社名神大とあるは即ち此社なり、伝へいふ、息長帯姫韓國より帰りましゝ時、始めて之を紫瀬戸に祭りたまひしを、後今の地に遷しゝなりと、神名帳考証に、住吉神社(名神大)與良郷鴨居瀕村、紫瀬戸にあり、今は同郷鶏知村白江山にあり、表筒男、中筒男、底筒男」とあり、神社覈録には、「住吉は須美乃江と訓べし。祭三筒男神、與良郷鶏知村に在す、式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、対馬島住吉神社一座」と云ひ、(頭注に、和名鈔鶏知郷あり)と載せ、次に「神位、続日本後紀、承和4年2月戊戌、対馬島下縣郡無位住吉神奉授從五位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授対馬島從五位下住吉神從五位上、同12年3月5日丁巳、授対馬島從五位上住吉神正五位下、元慶3年5月21日甲戌、対馬島正五位下住吉神從四位下と見え、神紙志料に「住吉神社、今與良郷鶏知村白江山に在り、底筒男、中筒男、表筒男神を祭る、伝へ云ふ、昔息長帯姫命、韓國より反り坐時、始めて此を紫瀬戸に祭る、後之を今地に遷す」と挙げ、次に承和貞観元慶年度の叙位を述べたる後、「醍醐天皇延喜の制、名神大社に列る、凡9月13日祭を行ふ」とあり。又、地名辞書に、「住吉神社、今鶏知村白江山に在り、相伝ふ、神功皇后韓國より反坐の時、始めて之を紫瀬戸に祭る、後之を今地に移す」と云ひ、尚ほ鶏知郷の條下に、「本州の掾官阿比留氏は、中世鶏知村に住したり、龍泉寺の南隣を其邸址とす、抑大掾阿比留平太郎國信の祖比伊國津は、蘇我宿祢の裔、上総國畔蒜郡の人なりしが、弘仁中國津の子行兼当國に任ぜられ、子孫遂に在庁官と為る、寛元3年、在庁官阿比留國信太宰府の命に從はざりければ、宗知宗府の軍兵を発し來討し、國信を輿良郷に撃破し之を殺す、阿比留氏の裔住吉社の神主に任す、領高二間零四十四分七厘八毛八、(紀事)」と云へり、又仙巣稿上巻に、「後船末至意如何、暫掩蒲帆傍岸阿、倒嶺横峯皆改観、乱余松少乱前聞、初三日暫泊住吉侍後船」とあり、太宰管内志に、延喜式に、下県郡住吉神社(名神大)あり、住吉は須美乃衣とよむべし」と見ゆ、又八幡本紀に云く、「神功皇后府中より御船を出し賜ひて、恙なく與良郷の瀬戸に著き給ひて、彼瀬戸の西岸にして神を祭り給ふ、此故に、此処に住吉大神の社を祝ふ、後世に至つて與良郷の東鶏知村に住吉神社を建立し、瀬戸の社の神体の鏡を移せり、神名帳に住吉神社(名神大)とある是なり、瀬戸にも猶小社を存して古跡をとどむ」式の考証に云く、下縣郡住吉神社は、輿良郷鴨居瀬村、紫瀬戸にありしを、今は同郷鶏知村白江山にあり」玉勝間に、下縣郡住吉神社は、與羅郷鶏知村にあり、神階從四位上、地図に、下縣郡住吉神社は、祭神彦波漱武鶴鵜草葺不合尊也、與良郷鶏知村にあり、書紀の通証に、谷川氏云、対馬島下縣郡住吉神社和多都美神社、此社司今尚称阿曇氏なども見えたり、祭祀等の事はいはす」と云ひ、尚脚注に「紫の瀬戸の事は委く鴨居の件に弁ふべし、さて鶏知村は後にも挙げたる如く、旧の住吉の地より一里余も南にありて、聊海をへだてゝ、地は府中の方につづけり、さて地圖を按するに、此鶏知村の邊に白江山と云ふは見えす、是より一里計西の方に白岳と云ふ山ありて、加志岳の北にならべり、是などにや、さて図に、鶏知村にも神社のさまをかけり、今の住吉の神社のことなるべし」となり、尚能く考合すべし、後村上天皇の康永元年9月13日、太宰府の命により、放生曾神事を興したりといへば、古來崇敬の名社たりしを知るに足る、明治7年6月郷社に列る。 社殿は本殿、拝殿を備へ、境内1002坪(官有地第一種)を有す。 明治神社志料 |