仁明天皇承和4年(838)2月元宮である岬の駒形神社より遷る。この地は延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられる。 |
白羽神社 仁明天皇承和4年(838)2月元宮である岬の駒形神社より遷る。延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。 旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年11月鎮座。 仁明天皇承和元年3月神様のお諭しにより宮処を廻り、青龍・白虎・朱雀・玄武の魔除の四神相諮り相応の処を定め、承和4年2月現地に遷座した。 武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。) 永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀3年10月14日御神体を還幸した。 また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正2年7月9日付を以って神領を寄進せられた。 武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長8年9月19日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。 太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る) また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている 由緒書 |
白羽神社 仁明天皇承和4年(838)2月元宮である岬の駒形神社より遷る。延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。 旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年11月鎮座。 仁明天皇承和元年3月神様のお諭しにより宮処を廻り、青龍・白虎・朱雀・玄武の魔除の四神相諮り相応の処を定め、承和4年2月現地に遷座した。 武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。) 永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀3年10月14日御神体を還幸した。 また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正2年7月9日付を以って神領を寄進せられた。 武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長8年9月19日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。 太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る) また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている。 遠江しるはの磯と贄の浦と あいてしあらば 言もかよはむ 万葉集遠江歌 丈部川相 当社前方が海辺で、万葉歌人の詠まれたものを見ても、古来より名高い所であった。 明治6年3月 郷社 明治44年8月11日 神饌幣帛料供進社に指定 昭和5年2月11日 県社に昇格 昭和21年11月30日 宗教法人令による神社を設立 昭和29年4月26日 宗教法人法による神社を設立登記した 静岡県神社庁 |
御前崎市指定文化財 白羽神社本殿(入母屋造り) 指定 昭和44年6月25日 当社本殿の建築年月は明らかではないが、社伝によれば元亀年間武田勢の兵火により焼失したといわれ、その後再建したものと思われる。棟札は、第11代神主滝中務藤原行広と署名のある慶長18年癸丑年と読まれるものがある。また、修復の棟札も数枚現存していることから、屋根等をたびたび修理をしたものと思われる。 武田家朱印状 指定 昭和45年10月15日 武田家文書は、「社領安堵」「神職放免」「武田家の武運長久祈願」「白羽郷民の日常生活に関する注意書」等である。 御前崎市教育委員会 社頭掲示板 |
通称横須賀街道旧跡 横須賀街道の名は元和元年(1615)駿遠合せて五十万石の領主となつた穂川家康の第十一子頼宣が、慶長14年(1609)駿府から横須賀に移封が決ったが、在府のまま横須賀領を治める為に駿府、横須賀間の街道を整備し、駿府、相良間に馬次場を開いたことに始まると言われています。 この旧跡はその支道の一部であり、相良町堀野新田了見寺前で本道と接続しており、横須賀は東の相良と共に、城下町として栄え、この地方の政治経済の中心でした。 明治22年東海道本線が開通し、堀之内(現菊川駅)に駅が開設され、それに通ずる県道が整備されるにつれて横須賀街道の名は次第に薄れていきました。 御前崎市教育委員会 社頭掲示板 |
白羽神社本殿 御前崎市指定有形文化財(建造物) 白羽神社本殿 昭和44年6月25日指定 白羽神社は、社伝によると平安時代の承和4年(837)2月に現在の社地に鎮座したと伝えられる。 本殿は間口三間、奥行二間の入母屋流造で、様式上から江戸中期から後期前半あたりの時代的傾向が認められる。屋根は柿葺で、地垂木と飛えん垂木の二軒で、いずれも繁垂木で構成されている。流れ屋根は四本の向拝柱(方形)で受け、柱をつなぐ頭貫は三梁の化粧虹梁を使用している。頭貫の中備は蟇股となっており、構造上の役は無く、表裏の彫刻が異なった特殊な装飾であり珍しい。木鼻は象形の丸彫の掛鼻で飾られている。 母屋〔本殿〕は台輪建てであり、台輪上に大斗をのせ出三斗で丸桁をささえる構造で、母屋柱は縁上の切目長押・その上に重なる戸口下の半長押・戸口上の冠木長押をもって柱を内外から挟み、横揺れを止める耐震的な構造をなしており、これは平安時代の意匠でたいへん珍しい造りになっている。母屋柱は方形より格の高い丸柱であり、いずれも亀甲形の彩色が施されたことが見て取れる。 柱間装置は、板唐戸一板扉の上下に端喰を入れ、扉の合わせ部の定規縁の面取りも大きく、古来の意匠を継承したものである。板壁は横嵌めであり、板壁に連花と欄間部分には花鳥の彩描が施され、神仏習合の思想が如実に表れている歴史的に見て大変貴重なものである。 御前崎市教育委員会 社頭掲示板 |
白羽神社由緒 磐田郡竜洋町白羽438番地 長白羽命 倭建命 他二十四柱 創立年代は不明 文武天皇4年3月此の地を牧地として牛馬を放養す牧官筑紫大伴某本社に奉仕せり 応氷年間山下与三郎政忠、信州より移往し牧官大伴の遺跡を嗣ぎ奉仕す 元亀年中武田軍の兵火にかかり旧9宝物を焼く 慶長13年神殿再建のことあり安政元年地震に幣殿及び拝殿倒壊し慶応元年造営せり、徳川氏朱印二十二石の寄進あり 明治6年3月15日神饌幣料供進指定社となる 明治42年3月11日境内社若宮社 八幡神社 金山神社 吾妻神社の四社を合祀せり 昭和22年2月1日 法人令により神社設立登記済 昭和24年3月31日 国有地譲与の許可 昭和26年2月7日登記済 昭和25年10月1日 八等級 旧郷社 例祭日 10月第二日曜日 社頭掲示板 |
白羽神社 しろはじんじや 静岡県榛原郡御前崎町白羽。旧県社。祭神は天津日高日子穂々出見尊・豊玉毘売命・玉依毘売命。社伝では安閑天皇元年御厩崎(現在の御前崎・駒形神社が元宮として鎮座)に鎮座し、承和元年(834)神諭により現在地に遷ったという。 延喜式内の服織田神社は当社であるといわれ、またこの地に営まれた白羽官牧の守護神であり古来馬に関する神験があるという。 中世には今川氏・武田氏の崇敬があり江戸時代には一〇五石の神領を寄進された。明治6年(1873)郷社、昭和5年県社に列した。 神社辞典 |
郷社 白羽神社 祭神 天津日高日子穂々出見尊 豊玉毘売命 玉依毘売命 創立年代詳ならず、但し、明細帳には「仁明天皇承和元年3月勧請の由、旧記に見えたるが、元亀年間武田晴信当国乱入の際、傅を失ひし」と紀せり、当時古書旧記は素より、社殿悉く兵災に羅り、御神体のみ僅に免かるるを得、本郡上長尾村に奉遷せり、乱平らぎだる後、武田氏社殿を再建し、朱印若干を附せりと、徳川時代は社領百五石を有せしこと、諸社御朱印写に見えたり、 「白羽大明神社領、遠江国榛原郷白羽村之内百五石事、任慶長8年9月19日、元和3年2月28日、寛永13年11月9日、先判之旨、永不可有相違者也、仍如件、 寛文5年7月11日」 古来此の地の産土神にして、明治の初年郷社に列せられたり。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、楼屋、籠屋等を具へ、境内は2216坪(官有地第一種)あり、当社は伴氏神名帳考証に「今曰白羽神、此守在相良立御崎、去横須賀五里、俗云、此神来自新羅国」と見え、古来式の服織田神社と言ひ傳へ、遠江国風土記伝には「白羽村白羽大明神、称式内服織田神社」と見え、遠江国式内社摘考に、「服織田神社、是は海邊にある白羽村の白羽大明神なりといへども、未詳、」と見え、特選神名牒には「今按、遠江国風土記伝、式社考共に、白羽村白羽大明神なりと云へる白羽は、古語拾遺に、令長白羽神種麻以為青和幣云々とある注文に、今俗衣服謂之白羽とみえて、此服織田神社によしありて聞ゆるを、注進状は柏原村と定めたるは、波取山の名に拠りたるにや詳かならず、猶考ふべし」と見えたるが、神祇志料は、「今白羽村の海邊にあり、白羽大明神と云ふ」と断定せり、然れども、当社を以て式社なりとするには、如上の事項のみにては、徽証十分なりといふべからず、なほ後考を侯つ。 明治神社誌料 |