白羽神社
しろわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】服織田神社 遠江国 榛原郡鎮座
          (旧地)駒形神社

   【現社名】白羽神社
   【住所】静岡県御前崎市白羽3511
       北緯34度36分45秒,東経138度11分14秒
   【祭神】天津日高日子穗穗手見命 豊玉姫命 玉依比売命
   【例祭】4月9日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】安閑天皇元年11月鎮座
       元亀3年(1572)10月14日造営
       慶長8年(1603)9月19日朱印高105石
       明治6年3月郷社
       明治44年8月11日神饌幣帛料供進社指定
       昭和5年2月11日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】承和4年(838)2月元宮である岬の駒形神社より遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社・白霊神社・西の宮八幡神社・大神宮

仁明天皇承和4年(838)2月元宮である岬の駒形神社より遷る。この地は延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられる。


白羽神社

仁明天皇承和4年(838)2月元宮である岬の駒形神社より遷る。延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。
旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年11月鎮座。
仁明天皇承和元年3月神様のお諭しにより宮処を廻り、青龍・白虎・朱雀・玄武の魔除の四神相諮り相応の処を定め、承和4年2月現地に遷座した。
武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。)
永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀3年10月14日御神体を還幸した。
また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正2年7月9日付を以って神領を寄進せられた。
武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長8年9月19日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。
太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る)
また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている

由緒書



白羽神社

仁明天皇承和4年(838)2月元宮である岬の駒形神社より遷る。延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。
旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年11月鎮座。
仁明天皇承和元年3月神様のお諭しにより宮処を廻り、青龍・白虎・朱雀・玄武の魔除の四神相諮り相応の処を定め、承和4年2月現地に遷座した。
武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。)
永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀3年10月14日御神体を還幸した。
また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正2年7月9日付を以って神領を寄進せられた。
武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長8年9月19日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。
太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る)
また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている。
遠江しるはの磯と贄の浦と
      あいてしあらば
           言もかよはむ
         万葉集遠江歌     丈部川相
当社前方が海辺で、万葉歌人の詠まれたものを見ても、古来より名高い所であった。
明治6年3月 郷社
明治44年8月11日 神饌幣帛料供進社に指定
昭和5年2月11日 県社に昇格
昭和21年11月30日 宗教法人令による神社を設立
昭和29年4月26日 宗教法人法による神社を設立登記した

静岡県神社庁



御前崎市指定文化財

白羽神社本殿(入母屋造り)
指定 昭和44年6月25日
当社本殿の建築年月は明らかではないが、社伝によれば元亀年間武田勢の兵火により焼失したといわれ、その後再建したものと思われる。棟札は、第11代神主滝中務藤原行広と署名のある慶長18年癸丑年と読まれるものがある。また、修復の棟札も数枚現存していることから、屋根等をたびたび修理をしたものと思われる。
武田家朱印状
指定 昭和45年10月15日
武田家文書は、「社領安堵」「神職放免」「武田家の武運長久祈願」「白羽郷民の日常生活に関する注意書」等である。
御前崎市教育委員会

社頭掲示板



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