つつじ公園に鎮座している。 古くは磐田原北野天神平(元天神と称している)に鎮座していた、その後現社地に遷座した(年代不詳) (見付元天神に元宮天神社がある) |
由緒 矢奈比売天神社の創立年月は、詳らかではありませんが、延喜式内社に列しており、古くは市内元天神の地に祀られておりました。いつの時代にか現在地か奉遷されましたが、その年月は詳らかではありません。 古記録によれば、続日本後記に承和7年6月(840年)奉授、遠江国磐田郡無位矢奈比売天神従五位下とあり、また三代実録に貞観2年正月(860年)詔授、遠江国従五位上矢奈比売天神正五位上と神階を授けられております。 相殿菅原大神は一条天皇正暦4年(993年)に勧請奉祀されております。慶長8年徳川家康より神領五十石が寄進されており、明治6年県社に列せられましたが、戦後はこの制度は廃止となりました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
矢奈比売天神社 卸祭神 矢奈比売命(やなひめのみこと) 菅原道真公(すがねらみちさねこう) 例祭日 旧歴8月10・11日前の土・日曜日 由緒 ※延喜式内社・※国史現在社として磐田の里々をはじめ、京の都にも名か知られ崇敬されていた。相殿の御祭神(蒼原道真公)は一条天皇の正暦4年(993年)に筑前国太宰府天満宮より勧請される。慶長8年(1603年)徳川家康公より神領五十石を寄進される。 明治六年社格が県社に列せられる。 ※延喜式内社とは、平安時代の延喜年間(十世紀前半)に著わされた延喜式神名帳に載せられている、古い格式のある神社。 ※国史現在社とは、六国史(日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳実録・三代実録)に記載のある神社。 当社は、続日本後紀と三代実録に記載されている。 御神徳、 古より学業成就・安産・子育て・諸産業振興の神として「見付のお天神様」と崇敬され、天下の奇祭(裸祭り)人身御供伝説とともに世世に知られている。 社頭掲示板 |
矢奈比売神社大祭・見付天神裸祭 大祭の起源は、元禄3年の拝殿弊殿再営奉加牒などによると、一条天皇の正暦4年(993)8月11日、勅を秦じ、太宰府天満宮より菅原道真公を勧請し毎年勧請の11日に祭記の盛礼を修し、氏子は歓喜勇躍の舞をして神意を慰めると記されている。 大祭は旧暦8月10日・11日に行れれるが、@餅神事(現在不明)A元天神祭事B御斯葉オロシC浜垢離D御池の清抜E大祭F裸祭G総社本殿祭H還御I還御巡行の道筋と儀式J御神霊移御の本殿祭と一貫した行事が行われている。 市文化財(無形民俗)昭和61年7月指定 県文化財(無形民俗)平成6年3月25日指定 社頭掲示板 |
矢名比売神社 相殿菅原大神(天満大自在天神)は一条天皇正暦4年(993年)に勧請奉祀されております。 慶長8年徳川家康より神領五十石が寄進されており、明治6年県社に列せられましたが、戦後はこの制度は廃止となりました。 御神徳は、古くから学業成就・健康守護・五穀豊穣の神として、「見付のお天神様」と崇敬され、遠近からの参拝者も多く、天下の奇祭といわれる裸祭り、人身御供の伝説とともに世に知られております。 歩みは遅いが、尾でうるさいハエをはらいながら黙々と草を何度も何度も噛み直して大きな体に成長する牛に、基本を繰り返し練習して、体得していくことの大切さを見ることができます。 そんな牛の性質を天神様は愛していたのです。 矢奈比売天神社の創立年月は、詳らかでありませんが、延喜式内社に列しており、古くは市内元天神の地に祀られておりました。いつの時代にか現在地に奉遷されましたが、その年月は詳らかでありません。 古記録によれば、続日本後記に承和7年6月戊辰(840年)奉授、遠江国磐田郡無位矢奈比売天神従五位下とあり、また三代実録に貞観2年正月戊寅(860年)詔授、遠江国従五位上矢奈比売天神正五位上と神階を授けられております。 菅原道真公がこよなく愛した梅は冬の最も厳しい寒さの中で花を咲かせ、春の近いことを告げます。人のできるあらゆる努力を尽くした後でひらめく知恵の象徴だと言われています。 また、梅という名前には「埋め」ている才能を開くという意味もあるのです。 【浜垢離の神事】 静岡県無形民俗文化財指定 例大祭の三日前に市内鮫島海岸で行なわれます。大祭に奉仕する氏子の方々が遠州灘の荒波に身を浸し心身を清めて神事に奉仕する準備をする禊ぎの神事であります。 かつては屋形船を仕立て笛、太鼓、の音も賑やかに今之浦川を下って海岸へ赴いたものですが、今では各町内は数台づつのバスに分乗して参りますので、さすがの鮫島海岸も老幼の氏子で埋まる盛況であります。 【見付の裸祭り】 静岡県無形民俗文化財指定 例大祭の夜、裸祭りの神事が行なわれます。起源は花園天皇の正和年間から始まったと伝えられ、旧暦8月10日宵から11日の暁に及ぶものでありましたが、時代の変遷に伴ない現在は旧暦8月10直前の土曜日に行なわれております。 当夜は氏子の男子は老幼を問わず裸体に腰蓑(こしみの)をつけ鉢巻、草鞋掛(わらじがけ)の姿でかけ声も勇ましく天神社へと練り進み拝殿内で乱舞します。これを鬼踊りと云っております。いよいよ神輿渡御の時刻となりますと全町灯火を消して幾千の裸の群は全く暗黒の中を神輿を奉じて総社(淡海国玉神社)へとひた走りに走って渡御が目出度く終るのであります。これを比佐麻利祭(ひさまり)と申し上げております。 この祭りは天下の奇祭として親しまれ、近年遠近からの参拝者も数万人の多きに達しております。 しっぺいたろう 【悉平太郎伝説】 当神社には昔人身御供が行なわれたらしく、悉平太郎伝説として残されております。 伝説によりますと正和年中(約660余年前)信濃国上伊那郡赤穂村光前寺より、悉平太郎という名犬を借り受けて怪物を退治して、人身御供という見付の悲しいならわしを断ち切って平和な見付の町にもどしたというもので、その謝恩のために当社々僧が奉納した大般若経は、現在寺宝として光前寺に保存され、磐田市と駒ケ根友好都市縁結びのきずなともなって現代に生きております。 【北野天神縁起絵巻】 市文化財指定 北野天神縁起絵巻は京都の北野天満宮の国宝のものを初めとして全国に三十種類以上が知られています。 当社の絵巻は北野天満宮の絵巻の系統を引く物で各場面の描き方がよく似ていると言われています。 【つつじ公園】 むせかえるような若葉の香りにつつまれての園内の散策は市民をはじめ遠来の観光客の目を楽しませてくれます。 天神社境内地の一部約2200u には、約200本の桜、2500本のつつじ、200本の赤松が植えられており、現在市営「見付天神つつじ公園」として、市民の憩いの場、県内外の観光地として利用されており、利用者は年間二十万人内外を数える程です。 ミヤマツツジの可憐な風情、桜と赤松の織りなすコントラスト、真紅の球を思わせるミヤマキリシマ、むせかえる「県一花」つつじの咲きほこる園としては県内随一とも言えるでしよう。 由緒書 |