矢奈比売神社
やなひめじんじゃ


戻るボタン





【明治39年神社明細帳】

一由緒創立年月不詳延喜式神各帳二所載之遠江國磐田郡矢奈比売神社是也 続日本後紀承和7年(840)6月授遠江國磐田郡无位矢奈比売天神從五位下 三代實録貞観2年(860)正月17日授遠江國從五位上矢奈比売神正五位上 明治元年10月3日植松少將ヲ勅使トシテ金幣ヲ奉ラル 同5年6月縣社二列ス 元禄年間ノ旧記二相殿菅原道眞ハ□□一條天皇ノ正暦4年(993)筑前國太宰府ヨリ勧請ス當社二比佐麻里祭トイヘル祭式アリ(今伝ハラス)
神領ハ田地三拾八町余ナリシカ天正文緑ノ頃没収セラレシ旨記載アリ旧朱印高五拾石ヲ有セリ
遠江國風土記傳当社ノ條二按山城風土記姓氏録等矢奈比売者矢之姫神而御祖賀茂建角身命也其御子別雷命ハ分穿屋甍而升於天故称申天神乎按磐田原中有謂天神之古社之地移天神山者(当社地ヲ云)時代不知干アリ住吉神社壱社ハ明治6年中二合祀セリ


【公式HP】

矢奈比賣神社(やなひめじんじゃ)は、「見付天神」や「見付のお天神様」として親しまれ、遠近から参拝者がいらっしゃいます。
 その創立年月は、詳らかとなっていませんが、延喜式内社に列しています。古くは磐田市元天神の地に祀られていましたが、いつの時代にか現在の地に奉遷されました。しかしながら、その年月も詳らかでありません。
 古い記録によれば、『続日本後記』に「承和7年6月戊辰(840年)奉授、遠江国磐田郡無位矢奈比賣天神従五位下」とあり、また『三代実録』に「貞観2年正月戊寅(860年)詔授、遠江国従五位上矢奈比賣天神正五位上」と神階を授けられています。
 相殿菅原大神(天満大自在天神)は一条天皇正暦四年(993年)に勧請奉祀されています。
 慶長8年徳川家康より神領五十石が寄進されており、明治6年県社に列せられました。


【静岡県神社庁】

矢奈比賣神社の創立年月日は、詳らかでありませんが、延喜式内社に列しており、古くは市内元天神の地に祀られておりました。いつの時代にか、現在地に奉遷されましたが、その年月は詳らかでありません。続日本書紀に「奉授遠江國磐田郡無位矢奈比賣天神従五位下」、三代実録に「詔授遠江國従五位上矢奈比賣天神正五位上」の記載が有ります。また、相殿菅原道真公は、一条天皇正暦4年に勧請奉祀されました。東日本において、一番古い勧請記録であります。


【霊犬「しっぺい太郎」のお話】

その昔、遠江のいわたでは、お祭りの夜、村の女の娘を人身御供として物の怪に供えていました。
 毎年のお祭りが近づくと、ある朝何処からともなく白羽の矢が、美しい女の娘の居る家の屋根にたつのでした。その家は、嘆き悲しみ、家族と泣き暮らしお祭りの日を迎えるのです。でも、しかたがないのです。村の人達が災害に襲われたりせず平穏に暮らすためには、物の怪を怒らせてはらないのです。お祭りの日、選ばれた家の女の娘は櫃に入れられ、物の怪に供えられのです。
 とあるお祭りも近い日のこと、偶然旅の僧がいわたに宿を求めて来ました。娘を囲み嘆き悲しむ家族に出会い、そのわけを尋ねました。
「もし、いったい何をそんなに泣いてらっしゃるのじゃ?」
「お祭りの夜、この娘は物の怪に取られるのです。」
 聞けば不幸な慣わし、何とかできぬものかと、旅の僧は痛く同情したのでした。すると村人の一人が言いました。
「物の怪は丑の刻に出て来て、怪しげに鼓舞してうたうそうな。『信濃の国のしっぺい太郎はおらんじゃろな。』と。信濃の国のしっぺい太郎をひどく恐れているのじゃそうな。」
「なに、信濃の国のしっぺい太郎?それはいったいどういうお方じゃ?その方を訪ねて相談してみてはいかがじゃ?」と旅の僧。
 旅の僧は、すぐに信濃の国を訪ねました。
「しっぺい太郎という勇士をご存じないか?」
信濃の国のそこここで、聞けど尋ねど何処にも知ってる人が居ません。途方に暮れた旅の僧は、駒ヶ根の茶店でひと休みし、ここでもしっぺい太郎を尋ねてみました。すると、傍らの人が
「光前寺の飼い犬が、しっぺい太郎ではなかったか?」とつぶやきました。
 はたして「しっぺい太郎」は、人ではなく、犬だったのです。旅の僧は、且つ驚き且つ喜び、早速光前寺にしっぺい太郎を訪ねました。
 灰色の毛色をした大きな体、勇猛かつ精悍な顔つき、これぞまさしく霊犬だと旅の僧は思いました。旅の僧は寺主に人身御供の話と物の怪が「しっぺい太郎」を恐れているらしいことを話しました。そして、しっぺい太郎を貸してもらえないかとお願いしました。 すると寺主は、
「その物の怪は、もしかするとこのしっぺい太郎にこの地を追われたモノかもしれんな。」
 旅の僧は寺主の免しを得て、しっぺい太郎を伴い、急いでいわたに戻りました。
 そしていよいよお祭りの日になりました。
 時はすでに午後を過ぎ、境内を閑寂がおそいます。夕闇が訪れる頃、いよいよしっぺい太郎を櫃に入れ、人身御供に替え廟後に供えました。
 丑の刻に至りて、廟社がにわかにしきりに振動したかと思うと、畏ろしい物の怪が3頭出て来ました。そして怪しく鼓舞してうたいだしました。
「信濃の国のしっぺい太郎・・しっぺい太郎はおらんじゃろな。」
 やがて物の怪がまさに櫃を捉えんとするその時、しっぺい太郎、櫃より勇ましく躍り出て、この世のものとも思えぬほどに猛然と吠え、物の怪に挑みかかり、挑みかかりして闘いはしばらく続きました。
 そして、力を尽くして遂に物の怪を倒しました。しっぺい太郎は深く傷を負いましたが、山々を越え、はるか信濃の国は駒ヶ根の光前寺に還っていきました。
 いわたには、その後人身御供の慣わしは無くなり、人々の心は安らかに暮らしも豊かになりました。人々は「しっぺい太郎」に感謝し、永く心に留め、これを語り継いできました。
http://www.iwatanet.com/tarou/tarou.htm


矢奈比売神社

矢奈比売は假字也○祭神明か也○見附神に在す、今天神と称す、(式社考、参考)
式社考云、世俗菅公ノ天神卜思フハ誤也、
神位
続日本後紀、承和7年6月戊辰、奉授遠江国磐田郡无位矢奈比売天神従五位下、三代實録、貞観2年正月27日戊寅、授遠江國從五位上矢奈売神正五位上、

神社覈録



縣社 矢奈比売神社

祭神 矢奈比売命
相殿 菅原道眞
合祭 底筒之男命 中筒之男命 底筒之男命(住吉神社) 火之迦具土命(愛宕神社)
一に天神とも称す、創立年代詳ならずといへども、延喜の制小社に列せらる、是より先、続日本後紀に、
「承和7年6月戊辰、奉授遠江国磐田郡无位矢奈売箆天神従五位下」
と見え、三代實録には、貞観2年正月27日、從五位上より正五位上に進み給へること見えたり、
遠江国式内社摘考に云く、「矢奈比売神社、見付神の天神是なり、続日本後紀云云、今世俗、菅公の天神なりとおもへるは誤なるべし」、
神名帳考証に云く、「式考云々、信友按、続後紀に、矢奈比売天神とありて、古くより天神と称し玉へり、天神と云ふは素より也、云々、それを、菅公の神祠とおもへる例、処々に多し、心をつくべき也」
元と磐田原中に御鎮座あらせられしが、年月不詳、今の地に遷御あらせられしと。
遠江国風土記伝に云く、「按、磐田原中有謂天神之古社之地、移天神山者、時代不知」
元禄年間の奮記に拠れば、相殿菅原道真は、正暦4年、筑前の太宰府より勧請せるものにして、神領元と三十八町を有せしも、天正、文禄の際没収せられたるが如し、然れども尚神領若干を有せしにやあらん、徳川家康慶安8年、先規に任せ、社領として朱印五十石を寄進せり、諸社御朱印写に云く、
「天神社領、逡江国豊田郡見付國府之内五十石事、任慶長8年9月19日、元和3年3月17日、寛永13年11月9日、先判之旨、永不可有相違者也」
明治元年10月3日、植松少將、勅使として参向、金幣御奉納ありしが、5年6月縣社に列す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神庫、社務所、接待所等を具備し、境内は1570坪(官有地第一種)を有す、老樹森をなし、昼尚ほ暗し。

明治神社誌料



矢奈比売神社

やなひめじんじや 静岡県磐田市住吉町。祭神は矢奈比売命と菅原朝臣命で見付天神社とも呼ばれる。『延喜式神名帳』所載の遠江国磐田郡十四座の一つである。
『続日本後紀』承和7年(840)に従五位下、『三代実録』貞観2年(860)に正五位上に叙せられた記載がある。相殿の菅原道真公は元禄年間(1688-1703)の旧記に一条天皇の正暦4年(993)に筑前国太宰府より勧請したとある。また神領は田地三八町余であったが天正・文禄の頃没収されたといわれるが、慶長8年(1603)には朱印領五〇石が寄進された。明治5年(1872)県社に列格。例祭は陰暦8月10、11日で比佐麻利祭といい、裸祭とも通称される。氏子男子が老若を問わず裸体に腰蓑を着け、神社に参拝し拝殿内に跳舞する。これを鬼踊りという。のち宿内全町の灯火を滅し、暗黒の内を白丁が神輿を奉じ総社(淡海国玉神社)へ渡御する。国府での祭祀の古態を残す祭りといえよう。現在は例祭日前の土曜日の夜に執行される。

神社辞典






戻るボタン


遠江国INDEXへ        TOPページへ

認定こども園