比沼麻奈爲神社
ひぬまないじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】比沼麻奈爲神社 丹後国 丹波郡鎮座

   【現社名】比沼麻奈爲神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町久次661
       北緯35度35分33秒、東経135度1分44秒
   【祭神】豊受大神 瓊瓊杵尊 天児屋根命 天太玉命
   【例祭】9月15日 例祭 10月10日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】崇神天皇39年創祀
       永承6年(1051)造営
       天喜元年(1053)造営
       正応3己丑年(1289)造営
       延徳3年(1491)造営
       宝永2年(1705造営
       文政9年(1826)造営
       明治6年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拜殿・幣殿・社務所・手水舎

   【境内社】稲荷神社・秋葉神社・祖霊社

伊勢外宮の本地とされる古社である。
天照大神が吉佐宮へ御遷幸の崇神天皇39年創祀と伝えられ、雄略天皇22年、天照大神の御神託により伊勢度会宮に遷座されたとき、御分靈を奉祀したといわれる。


由緒

遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめられた、豊受大神を主神として、古代よりおまつり申しています。
豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此のお社に御鎮座せられていたのです。即ち此のお社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。
多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、天照大神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、此処にお鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を、大神に捧げられたと、伝えられています。
その後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮)に御鎮座になりました。その後、560余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、天照大神が現れ給うて、吾は此処に鎮座しているが、自分一所のみ居てはいと苦しく、其の上御饌も安く聞召されぬ、ついては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御告げがあった。そこで天皇は、大佐々命を丹波国に遣わし、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮(外宮)に御鎮座あらせられたのが、雄略天皇22年(西暦478年)9月のことであり、跡に御分霊を留めておまつりしているのが此の比沼麻奈為神社であります。
古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣された四道将軍の丹波道主命は、その御子、八乎止女を斎女として厚く奉斎されており、延喜年間(西暦900年)制定せられた延喜式の神祇巻に、丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈為神社と載せられている古いお社で、此の地方では昔、「真名井大神宮」とか「豊受大神宮」と呼ばれていたようで、古い棟札や、鳥居の扁額などにそれらの社名が記されて居り、丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領三千八百石あったとも伝えられています。尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の供進をせられた事が、記録に見えています。
社殿は、伊勢神宮と同じ様式の神明造りで、内本殿は文政九年の建立、外本殿及び拝殿は、大正9年から同11年の長期に亘り、氏子はもとより、数百名の崇敬者の浄財により完成したもので、棟の千木、勝男木の金色は、春の青葉、秋の紅葉を眼下に亭々と聳える老杉の中に燦然と輝き、自から襟を正さしめる幽邃な神域であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



比沼麻奈爲神社

古蹟
久次(ひさつぎ)
太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(苛霊)の里と呼ばれていたが、延喜年間、民部令により「比」の一字を削除して、久次の里(くしの里)となり、後世訓読して"ひさつぎ〃と呼ばれる様になったのは、徳川時代の事と言います。

久次嶽(真名井岳)
豊受大神が、稲作りなどの農業を此の山麓ではじめられた〃苛霊岳"であり、九州の天忍穂井の真名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰であるので、真名井岳とも言われています。
此の山頂近く「大神杜」あり、古、大神鎮座の地と言い、干古不伐、老樹鬱蒼とした中に巨岩塁々として、古より女人禁制の仙境であります。
此の森の近くに「降神岩」、中腹に真名井の水を移されたと伝えられる「穂井の段」、大神が五穀や種々の御饌物を天神に奉られた机代の石と博えられる「応石(おおみあえ石)」があります。

清水戸(稲種漬井)
豊受大神が稲作りをせられる時、始めて稲種を浸された霊井で、常に少し白濁しており旱魃にも涸れる事が無いと言われています。

月輪田(三ケ月田)
豊受大神が始めて稲を植えられた霊跡。
(清水戸、月輪田、共に久次との地続きの苗代(字二箇)にあり)
崇敬
豊受大神は、稲作りをはじめられた神様なので農業はもとより、屋船豊受姫大神と申して住宅守護、又、天之棚機姫大神と称えて、機業の神としても崇敬されています。特に諸の物を生産された御神徳により、安産守護の信仰は非常に厚く、祈願、報賓の人々は跡を絶ちません。 此の様に吾々が、生活を保ってゆく基本である衣食住のすべてをお守り下さる豊受大神の違大な恩恵を、彼の有名な国学者・本居宣長は、玉鉾百首の中で
朝夕にもの食ふごとに豊受の
  かみのめぐみを思へ世のひと
と称讃しています。
祭祀
元旦の「歳旦祭」春の「節分祭」をはじめ、三月の「祈年祭」秋の「新嘗祭」等数多くの祭典が行われている中にも、特に十月九・十両日の例祭には、昔から博わる「堀々離」「神楽舞」をはじめ、当地方には珍らしい「堀々離」による「太刀振り」など多くの神事が若い人等によって奉納されます。

由緒書



比沼麻奈爲神社

文學博士從四位勲四等大學教授 栗田寛撰文其弌
吾天皇の治食國に神は多に座れど其中に最も貴は衣服を作て寒を凌食物を生て飢ざらしめ雨風の烈も家に居べく物し給るより有がたきはあらざめり然を世に其神の座神社の在処さへ疎に心得て知らで過ぬるはあるまじき事也豐受大神の始て造化せる五穀及蠶等を皇祖天照大神の賞給て穀を長田に稻穗所埀を新甞に所聞食給蠶を香山の桑に養しめ糸を抽の法を教給るより衣食の道は始けるに猶屋船 豊受神とも稱家の錯鳴動事なく萓の馨なからせ給は皆豐受大神の恩頼に依れる物ならずやは抑豐受大神は皇孫尊の降臨の時天照大神の御靈代と共に降給て御歴代天皇の御所に重く齊かれ座を崇神天皇御世39年に豐受大神の現身に座し此丹波の郡奇靈の里比沼麻奈爲神社に鎭座ける事明けく其大宮は元久次村の眞名井嶽麓大宮屋敷に在しを兵亂に境内續奥まりし今の社地に移き現神域樹茂て最如神し御神殿南向に拝殿も嚴に華表に比沼眞名井原豐受皇大神宮の古額と社内の古棟札等にても其所在は紛節もなしさて食物衣裳住家等に至迄造と作て創惠給る御功徳を顯し伊勢神宮豊受宮の古本社なるを証明し数多の人等をも此豊受大神の幸ます稻の千秋の後迄もしらしめむとする者は常陸國人にて東京大學校文科教授の任なる栗田寛になもありける御鎭座1958年明治33年庚子建碑

社頭石碑



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