比沼麻奈爲神社
ひぬまないじんじゃ


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【由緒】

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は「豊受大神」を主祭神としてお祀リしているお社です。天照大神が今の伊勢内宮に御鎮座になられた後、雄略天皇の夢枕に現れ、丹波国(現在の丹後国)の比沼真奈井〔ひぬまのまない)にいる御饌の神「豊受大神」を呼寄せたいと言う御告げがあったため、この地より現在の伊勢神宮外宮に遷宮されましたが、その元のお社で御分霊を留めてお祀りしているのがこの比沼麻奈為神社です。

社頭掲示板



【由緒】

【比沼麻奈為神社(式内社、久次、宮の谷、祭神豊受大神、瓊々杵命、天児屋根命、大玉命)】『延喜式』にある丹波郡比沼麻奈為神社はこれであるという。
宝暦3年(『峯山明細紀』)真奈井明神 三尺社、宮守 六太夫、上屋 舞殿共二間に三間、境内 山の高さ 三十二間幅二十六間程、但し境内に祝神の小祠一社御座候。祭礼 9月15日、河部村神子来り神事相勤め…(追加)享和元年(1801)(六代)京極高久から、真名井明神へ米三俵寄付…この外、7月24日、御領分五ヶ村舟岡愛宕祭礼の時、久次村からも祭礼を勤めており、同時に真奈井でも神事を行なっている。
文化7年(『丹後旧事記』)比治真奈為神社、久次村、祭神 真奈為大明神、豊宇賀能売命 相殿 和奈佐翁、和奈佐女……(同、一書には比沼真奈為神社、咋邑、久次邑、祢宜 森宮守。祭神……〈同前〉とある)。
天保12年(『丹哥府志』)この、『丹哥府志』の説では、与謝郡の真名井原から、豊受大神を伊勢へお迎えしたのだから、その跡にまつられた真名井神社を『延喜式』に載せないで、丹波郡にある真名井神社を載せたもので、この祭神は豊受大神ではなく、四道将軍丹波道主命の孫の稲別命であるようにうけとれる。しかし、同じ『丹哥府志』の稲代神社の項(前記)でも、吉佐の吉原にいた稲別命をまつったのであろうといっている。同じ神をまつる例は多いが、何かすっぎりしないものがある。
また、古い時代の与謝、丹波、竹野三郡の区分は実にあいまいで、「与謝郡比沼山頂に井があり、その名を麻奈井とよび、神のいる処である」などいっている(『神名秘書』)。他にもこうした例はたくさんある。
明治2年『峯山旧記』は「真名井大明神久次村にあり、祭神 真名井大明神 豊宇賀能売命、宮守 六太夫、神子 河辺村相模」と記し、さらに、『延喜式』の咋岡神祉は当村にあったものを吉原(吉原山のこと)に移した跡へ受」受持の神(宇気持=保食)をまつって、真名井大明神といったのだから、『延喜式』の比沼麻奈為神はこの社ではないと否定している。しかし、鱒留村は峯山領でなかったためか、藤社神社についての項が『峯山旧記』中にみえないから、この社を肯定したかどうか臆測でぎない。
『丹波、丹後式内神社取調』これはいろいろな説をそのまま列記している。そのうちの『豊岡県式内神社未定考案記』は、久次村は咋岡神社であるのを、同村の者は真名井神社といい張り、古い棟札を取り調べてみたら、真名井大神宮と記してあったが、もとの文字を消して書きなおしたものであり、比沼真名井は藤社神社にまちがいないであろう−−といい、また、籠神社の大原美能理『丹後国式内神社考(式考)』には−比沼真名井神社は、中古から藤ノ神社とよび、比沼は比治の誤りであり、比治山は三国三郡にまたがり、丹後中での名山で、四つの名をもっており、この山の下の各郡に比治という神社がある。また、フジとヒジは同じ意味であるし、天の真名井は日向の国からこの地に移し、さらに伊勢の外宮に移したもので、真名井のある土地を藤岡、あるいは藤社(こそ)とよんでいる。鱒留村は麻須少女(ますおとめ)村の意味で、斎宮女(神社に奉仕する乙女)の住んでいたことから生まれた地名であるという。また、宮本池臣『丹後但馬神社道志流倍』をみると、『摂津風土記』の、丹波国比遅乃麻奈葦および但馬国出石の比遅神社を例にとり、比沼は比治の誤りであるとし、比治山の下の養蚕の神である藤社大明神が麻奈為神社で、久次村の真名井明神は、久比志ヶ嶽のつづきで峯山の奥に当たり、式内神社としては社地も狭く、型も備えておらず、安産の神であることは不都合である(式内社として都合がよくないという意味)。また、藤ヶ森(出石郡)は比治ヶ森から、藤社(こそ)は比治社から呼び換えられたものである−といっている。
では、今一度、久次村にあったという『延喜式』内の咋岡神社(現在、赤坂)について『式考』の説を略記して参考にしよう。
『丹後旧事記』に−咋石嶽は久次村の後の山で、一般は久次嶽とよんでいる。ここは宇気持ノ神が天降られた地で、山頂に二間四面の平かな大岩があり、昔はこの岩を神としてあがめまつった。この岩の表面に人の死んだ形があるが、これは宇気持ノ神の死なれた姿である−というとおり、ここは全く神代の遺跡で、『摂津風土記』に、稲倉山云々とあった事跡である、であるから、この霊石は、古老のいい伝えにある大饗石(高十二尺、縦十八尺、横十三尺余)で、その下に月読命の御手洗の滝があり、その上に大神社(かうさ)(おおかみのもり)という所があり(社は杜か)、右の方に来迎山(こむかいやま)があり、切果谿(きりはたしだに)があって、この霊石のある付近をすべて饗応渓という、こうして、咋岡神社は、この霊石を御神体としてまつったようであるから、奇霊石咋岡(くいしくいおか)神社というわけであろう。それを、大神社(かうさ)という所に少々水が湧き出ているのを、真名井として咋石嶽の別名をマナ井嵩とも呼び、伊勢外宮の本社といっているのはいつわりである−と。
大正13年、『中郡誌稿』は、久次村説の一番重要な資料として、田中頼庸の文をあげている。明治以降の社伝の多くは、これによってつづられている。その説によると−沼は治の誤りではない。久次村は奇霊(くしひ)のクシをとり、諸国部内の郡里の名は、二字を並用し、必ず嘉名を取れという当時の『民部式』の指図どおり、久次の縁起のよい二字を選んで、その字音にあてはめた。それが後になって、ヒサツギと訓よみにされたのである。ところが、神社名は奇霊(くしひ)を三字の字音を用いて久次比(くしひ)とし、久次比真名井のその比をとって、比真名井(ひのまない)とし、さらに、真名井の音を仮名で麻奈為と書き、比と麻奈為を接続するノを沼に書いただけで、他にたいした意味はない−といっている。ノをヌと発音したのは古代の特徴である。
その他残存している地名の大宮屋敷、宮谷川、異井谷(こといだに)、裾垣(ぞぞがき)(雑垣)、下垣(しもがき)(下墻)、御屋敷(御師屋敷)、穂井段(ほいのだん)、あるいは豊受大神が山、里、海の珍味を山盛りにして、月読命をもてなされたという応石(おういし)、苗代水(清水戸)、月形田(月の輪、三日月田とも)、通川(とにがわ)について、それぞれ考証を行ない、さらに新治村(新沼村とも)の西の入口に麻奈為の一の鳥居があり(鳥居地)、通川の岸にそって下たって来た神輿は、この一の鳥居をくぐって、遠く下菅の久津方の森へ御旅をしたことを述べ、数百年を経た後陽成天皇御震筆という「比沼真名井原豊受皇大神宮」の古額などの例をあげて説明し、神楽童謡「戌亥の隅な井や、水又居呑み弥居呑みは並びて狭庭なる」、これは『丹後風土記』にいう郡家(郡を治める役所)の西北の隅に比沼の里があって、その地に真名井があることを証拠立てるものである−とい意味のことを述べている。
童謡の意味は「麗水を呑みに集まる者が大勢並んで狭いようだ」ということで、弥(いや)はうたう時の掛声であるという。
神社の境内に立つ、栗田寛撰文「頌徳碑」(明治三十三年)は、五穀、養蚕、織物の神である豊受大神の徳をたたえたもので、崇神天皇御世39年に、豊受大神が現身(人間の姿)のままで丹波ノ国奇霊の里、比沼麻奈為神社に鎮座されていたことは明らかで、その大宮は久次村の真名井嶽の下の大宮屋敷にあったが、兵乱の際、ずっと奥の今の社地に移されたことがきざまれている。
大八州雑誌『飯田武郷紀行文』(明治30年頃)が、「大日本地名辞書』中、咋岡神社の項に用いられている。すなわち−久次に比沼真名井原宮があり、五穀の神として、今も神殿の下の土の中から、米の形の土(土の米)が湧き出るが、ときどき沢山湧き出て、高くもりあがり、里の人は神様が喜んでおられるのだと、非常に尊敬している。ところが、近所の鱒留の藤社大明神が、『延喜式』にある真名井神社であると、明治維新の頃官へも申し出……とんでもない書物などつくって人にすすめ−などと藤社説を否定し、比治山は咋石嶽といい、足卜山は伊去奈子ノ嶽とも、真名井嶽ともいうが、足卜山と比治山とは方角は少しちがうが、山脈が同じであるところから、どちらも真名井ノ嶽といったもので、今では知ることができないし、どちらの山に豊受大神が天降られたか定めがたい−といい、さらに、道ばたの大石を、天神をおもてなしした机だとか、豊受大神が死なれた形が残っているとか、さまざまの怪しいことをいい伝えて−と、つけ加えている。
『五箇村郷土誌二』(昭和11年)は、雄略天皇22年、大佐々命が勅命によって、豊受大神を伊勢の山田原にお遷ししたとき、御分霊をとどめてまつったのであるといっている。神殿十一・五坪(文政9年築造)、上屋十五.三三坪(大正10年改築)、拝殿七坪(同)、社務所二十七・五七七坪(昭和3年改築)。
〔境内神社〕稲荷神社、祭神倉稲魂命。佐田神社、祭神 猿田彦命
〔末社〕秋葉神社 火産霊命、竃土神社 奥津彦命 奥津姫命、山祇神社 大山祇命
村社で、守護安産の神であり、社殿の床下から出る米粒のようなものを「ドシャ」といって、産婦に呑ませる。
境内千六百三十一坪官有地、四百九十六坪民有地…
〔昭和2年3月7日震災による被害〕社務所四間に十間、全壊。

峰山郷土志






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