多久神社
たくじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多久神社 丹後国 丹波郡鎮座
          (旧地)多久神社【旧地】

   【現社名】多久神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町丹波2
       北緯35度38分8秒、東経135度4分45秒
   【祭神】豊宇賀能当ス
   【例祭】10月8日
   【社格】旧村社
   【由緒】嘉吉3年(1443)奥地より現在地に遷座
       文化8年(1811)出火で社殿全焼
       文化9年(1812)再建
       明治6年村社
       明治40年神饌幣帛料供進指定
       昭和2年大雪と震災で大破

   【関係氏族】
   【鎮座地】現社域西約四丁の山間の奥地
        嘉吉3年(1443)奥地より現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天酒大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

崇神天皇の朝、丹波郷の奥地にある池に天酒神が天降り、その地に創祀されたという。
この神は崇神朝39年に豊受大神の現身として丹波奇靈里比沼麻奈爲に天降られたと古事記にある神と同一神である。
多久の旧鎭座地は神座の尾(現在は笠ノ尾)、池は七夕池として殘つている。
造酒・機織の祭神に、栲(タク)でつくつた織物を奉納したのが社名の起源という説がある。


多久神社

祭神 豊宇賀能比売命
鎮座年記 不詳
延喜の制小社に列す。祭神は真井伝説による天女これなり、豊受大神化身にして当地に降り農産を創む。社記に曰秋垂頴八握莫々然大神見之大歓喜詔阿那邇恵志田植弥弖之田庭矣云々丹波之地名ハ実ニコレニ起因シ此故ヲ以テ祭祀スト。又丹後古風土記文中曰天女善為醸酒飲一杯吉萬病悉除之ト即チ醸酒而衆生ニ施典スルニ奇瑞ノ徳澤ニ浴セザルナシ後世天酒大明神ト尊称スル所以ニシテ所謂天酒祭ハ如上ノ温故ニ由来スルモノナリ而テ社記ニ毎祭置酒而祝縁起云々ト伝エタリ。当社ハ丹波荒山内記矢田ノ総鎮守ニシテ祭礼練込神事アリシモ寛延年中ニ止ム当時ノ御旅所今ニ往昔ノ盛蹟ヲ存ス。
藩主京極氏世代崇敬不惰金品ノ寄進数度アリ古来人口ニ会炙スル俚謡ニ矢田や丹波の郷の天酒さまのお下通るもありがたいト云フ悉神徳ヲ讃仰セルナリ。当社ハ元天女之居跡神座尾ニアリ嘉吉年間当神山ニ遷座ス現今ノ本殿ハ地方ノ名匠吉岡嘉平治之作文化9年之造営ナリ。
明治6年2月10日村社列格
紀元2600年春祭日掲之

社頭掲示板



多久神社

祭神  豊宇賀能当ス (とようかのみのみこと) 鎮座年記 不詳 例祭  10月8日  延喜式(927年制定)式内社の小社です。真井伝説による天女を祭神としています。天女は豊受大神(伊勢外宮の豊受大神宮に祀られる穀物女神)の化身で、当地に天下り農業を興されました。社記によると「(植えたその)秋に稲の穂が垂れてたわわに実った様を見られて大神は大変お喜びになり、『ああ嬉しい! まことに立派に実った田庭だね云々』と申された。丹波の地名はここから発し、このことを以て祭神をお祭りする』と言われております。  又、丹後古風土記逸文に「天女よく酒を噛み造り、その酒を一杯飲めばすべての病が治る」といわれ、「その酒を村人に分け与えると皆が吉兆の恵みとおかげを授かる」と言われています。このことが後世に天酒大明神と崇められているゆえんであり、天酒祭は前述の言い伝えに由来するものです。そこで社記に「いつも祭に酒を置いて縁起を祝う云々」と伝わっています。
 このお宮は、丹波、荒山、内記、矢田の総鎮守でお祭りには神輿練込の神事がありましたが寛永年中(1624年頃)に無くなりました。当時の御旅所が、昔の盛んであった神事の跡を残しています。  藩主の京極様は代々このお宮にいつも崇敬の念をもたれ、寄進は数度に亘ってございました。  昔から、多くの人々の口に、もてはやされている里歌に「矢田や丹波の郷の天酒様のお下通もありがたい」と謡われています。おそらく紳徳を崇め讃えてのことでしょう。この社は、元天女が鎮座されていた神座尾(笠の尾)にありましたが嘉吉年間(1441年頃)に現在の神山に鎮座しました。現在の本殿は、この地方の名匠吉岡嘉平冶の作で、文化9年(1812年)に造営されたものです。 明治6年2月10日に村社に列格されました。   紀元2600年(1940年)春祭日掲之
         平成20年(2008年)10月吉日作成

社頭掲示板



多久神社

多久神社は峰山町丹波小字涌田山に鎮座する。祭神である豊宇賀能メ命は『丹後国風土記』にいう比治山の天女とされ、万病を治す酒をつくったことから、明治期まで天酒大明神とも称した。
当社の祭礼で行われる神事芸能の芝むくり(ちゃあ)は、京都府無形民俗文化財に登録されている。境内は南西から北東にかけて広がり石段を上がった高台に神饌所兼神輿庫、拝殿、本殿覆屋及び境内社が建ち並ぶ。
現在の本殿は文化8年(1811)に火災に遭った機再建されたと伝わり、文化11年(1814)には完成したことが擬宝珠銘より判明する。一間社隅木入春日造、こけら葺、建物を彫刻で飾り、軒桁を持ち出して屋根を大きく見せ、正面に唐破風をつける。大工は丹後を中心に活躍した吉岡嘉平で、また細部を飾る彫刻が優れている神社本殿遺構として重要であり、京都府登録文化財に登録されている。
本殿背後には、全長100mに及ぶ前方後円墳を盟主として約四〇基の古墳が集中しており、うち一号墳から四号境が京都府史跡「湧田山古墳群」に指定されている。
山腹に鎮座する多久神社の社叢と背後に広がる森林約1.76ヘクタールは、芝むくりが奉納される本殿を中心に、それらを取り囲む杜が歴史的景観を形成し、また約四〇基の古墳が集中する貴重な保全すべき地域であるとして、京都府文化財環境保全地区に決定されている。
丹波の芝むくり
芝むくりは『丹後史料叢書』所収の文化13年(1816)録の丹後峯山領「風俗問状」にも記述されている丹波地区の氏神多久神社の秋祭り(10月)の祭礼(神輿祭)に行われる由緒ある神事芸能である。
先導一人、太鼓打六人、猿役二人の構成で巡行する神輿に先行し、所定の要所で演じられる。組み合って連続回転技をみせたりする猿役の演技が印象的である。その際かけられる「ちゃあ」という掛声によって芝むくりは「ちゃあ」ともよばれている。
丹後に広く流布した、笹ばやしの一つであるが、笹ばやしに伴った棒降芸が特異な展開をみせたものであり、民俗芸能として貴重である。
京丹後市教育委員会

社頭掲示板



多久神社

(丹波丹後式内神社取調書)多久神社、〔姓録〕神魂命男多久豆玉命按賀茂建玉依彦命歟○〔年中行事秘抄〕多久須玉依姫
(丹哥府志)多久神社今天酒大明神といふ(祭9月15日)
(丹後旧事記)多久神社 丹波郷 神主今西駿河守
祭神 天酒大明神(豊宇賀能当ス也)
(峯山明細記)(六尺社)天酒大明神(祠官)今西権頭 上屋三間四面 舞殿一間半に二間半 境内長百二十間程幅二十六間程 右祭礼9月8日河部村神子相模相雇申候
(村誌)村社 字涌田 多久神社 祭日10月19日 祭神豊宇賀能当ス
由緒 社記録等存在せされとも里老口碑に此れ多久神社の旧跡なり今に祠を祀る途前に内地と唱る地有てをく多久の訛なと神内の義又神官屋敷を今は今西屋敷と云ふ又は神子屋敷も今は有て奥地を少にても穢し觸るものは神の御荒ひを蒙るとかや世代詳かならされとも昔例祭日は橋木村矢田村内記村荒山村共に同日の祭也しと云々の事有り今祭日は当村のみにて御旅所は内記村境に大櫛ありて此枝を手に経れは神の祟を受ると云々(此文章誤字多きが如き元のまま也実地聞書と照合すべし)
境内東西九間 南北十七間 面積百三十五坪(下略)
(実地聞書)明治の始め多久神社号を許さる又社記類は百年程以前に焼失したりと、又旅所は字川向といふ地にて大なるつつじの木ありと、此社祭日には中郡のみならす諸方の造酒家多く参詣すといふ又曰く本社はもと由利の城跡にありしなりといひ今の地より西方城跡の丘下を字多久と称し今は字奥地と呼ふ同所に字大門といふもあり又今西藤村山本等は当村の旧家なりと云
(実地聞書)子守歌 矢田や丹波の郷の天酒さんのおした通るもあり有がたや

中郡誌稿



多久神社

【多久神社(式内社、丹波、湧田山、祭神 豊宇賀能売命)】
この神社は、『延喜式』による多久ノ神社で、丹波郡九座一神の比治山の天女、豊宇賀能売命をまつっている。
宝暦3年(『峯山明細記』)
六尺社 天酒大明神、祠官 今西権頭、上屋 三間四面、舞殿 一間半に二間半、境内 長一二〇間幅二六間程、右祭礼9月8日、河部村の神子相模を雇って神事を行なった。
ところが、同じ宝暦11年(1761)、『宮津府志』には、竹野郡船木の奈具社と混同したものか、「奈具社…今天酒大明神と称し、竹野郡にあるが、今考えると中郡丹波郷村にある」とし、祭神、祭日などは、『明細記』と同じであるが、社の起原について次のように説明を加えている。
『延喜式』にいう丹後国竹野郡奈具の社は、豊宇気比女神である。この神は、よく酒をつくるので、伊勢の末社として移しまつって、「酒殿ノ神」と称し、また、よく稲を植えるので大膳職に移しまつって「御食津ノ神」と申し上げているが、どちらも豊宇気比女神のことである。
また、『神社啓蒙』にいう。この神社は、竹野丹波郷にあって、里の人は斎宮の酒造りであるといっている。この神は宇賀之メ命である−と。『元元集』にいうには、『丹後風土記』にいう比沼ノ山頂に井があって、その名を真井という。…(中略)これらの説から考えると、この話は、駿河国の羽衣明神の由来とよく似ている。荒塩村とい5のは、今の荒山村であろうか、一説には、周枳村の荒塩大明神がその遺跡であるといっているが、まだはっきりしない。哭木村は今にいう内木村である。比沼山は今、比治山という。どちらも中郡である。船木村は竹野郡にある。荒山村、内木村、船木村ともに小さな社があり、ただ丹波郷にある社だけがすこぶる大社である。今、天酒大明神というのは、天女がよく酒をつくることからうまれたお名前である。
文化7年『丹後旧事紀』
多久神社、丹波郷、神主 今西駿河守、祭神 天酒大明神、豊宇賀能メ命なり。
天保4年(『丹波村記録』)
3月8日から、天酒明神で「一万度の祓」が行なわれた。神主は今西石見であり、8日から10日までの藩の見回役は、小頭小田廉次と長谷川権兵衛であった。費用は同村および町在から寄付 勧化)をあつめた。3月23日には、御家中や藩主・女中衆も参詣し、茶酒を出してもてなした、石見の一万度祓について村方の入用は多かった。
飢饉の際、御蔵米を無断で施した罪で、口大野へ追放されたという長谷川権平は、この見回役の長谷川権兵衛であったろう。酉8月付の申渡しの書付けを保存しており、天保四年以後の酉年は天保8年、嘉永2年、安政8年……に相当する。天保12年(『丹哥府志』)
延喜式、多久神社、今、天酒大明神という。行事は奈具社のところにある。祭9月15日(丹波、丹後式内神社取調書)。姓録、神魂命、男多久豆玉命。按ずるに加茂建玉依彦命か(年中行事秘抄)。多久須玉依姫。
明治2年(『峯山旧記』)
天酒大明神、豊宇賀能売命、祭9月15日。この日、近郷の酒造家が多数参詣する。
明治2年『改号相殿窺書』には「神主今西伊予通清から神祇官御役所に提出した同書によると、多久神社、祭神多久都玉命とし、一般には天酒大明神と称し、豊宇賀能メ命と申します」と付記している。また、相殿の神々には、「一、八幡宮、祭神 品陀和気命(注、誉田別)、一、立地社(立地荒神改号)、祭神 須賀明神、一、八重垣社(八大荒神改号)、祭神 八重垣明神、一、平賀岡社、祭神 保食命」とある。
多久論争
明治2年頃、政体御一新によって、寺院の別当を免ずるとともに、神社の俗称を廃して、古神道による神社号に改めた。この改号が原因となって、神社故地の論争が各地に起こっている。荒山、新町村には「たこ谷」「たこ千軒」という地名があるが、丹波(たには)のニハを逆転するとハニとなり、さらに二をミに読みかえて、ハミ=波弥、すなわち食=はむ=食の神社となるから、丹波は波弥と同じで、この理由から、丹波の多久神社の故地は、荒山、新町の「たこ」すなわち、多久の地であるなどの説が現われた。これに対し、当時、多久神社の今西伊予は、丹波は、古書にもあるとおり、「たには」にちがいなく、けっして波弥ではないことを明白にしてほしいと藩の社寺司(もとの寺社奉行)に申し出ている、その結果、社寺司がどのような証言を与えたか資料は残っていない。同じ年に、社寺司にさし出した、『神社取調帳』の中に、多久神社の由来と、旧社地から現在の社地に移った理由を記しているが、その次に「その当時、橋木村、矢田村、内記村、荒山村は、御祭日の祭礼は一しょに勤めて来ましたが、大争論から祭日が別々になりました。この村でも、よく聞き伝えて知っていると思いますが、今も丹波村と内記村の境の御旅所跡に、槻の木があって、その枝などを損じると、たちまち神のおとがめを受けると申し伝えています」と書いている。これから想像すると、論争は五百年前からあったことになる。また、この論争は、地元の誤解ばかりではない。「丹波郷村また荒山村にタコ川というあり、依って多久神社は荒山なるべしとも言へり」との説を『神社取調書』にのせている。当時、祭礼は、毎年9月8日であったが、荒山村は7日さかのぼって9月1日、内記村は7日下って9月15日に変更した。現在の例祭は10月8日、10日で、8日は例祭式典、10日は神幸、還幸(御輿の渡後)の祭礼である。明治38年から、中郡一円、この10日を秋の例祭に統一したといっている(『丹波村記録』)。
ただ、この中で、注意を要することは、最初、社寺司へ願い出た時は、多久神社の祭神を豊宇賀能メ命、別称天酒大明神。付祭、大若子命、酒解命としていながら、次の『取調帳』には「多久神社、式内……祭神 多久津玉命。同社相殿、式外 天酒社、祭神 豊宇賀能メ命』として、式内式外の両社に分け、天酒社は式外としている。これを前記の窺書とくらべると、同じ明治2年に、しかも、同じ神主の調書であることからも、当時、明治初年の大改革が、いかに混乱をきたしていたかがうかがわれよう。…

峰山郷土志



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