この地は景勝の地で安藤廣重が「六十余州名所図絵」の中に「丹波鐘ケ坂」と題して描いている。 集落の中央部に小さな石碑が残っている。 |
苅野神社旧地 苅野祠蹟由緒 柏原町上小倉字苅野田古宮延宝6年検地の上、除地に被付相成ると有り。皇暦50代桓武天皇第三皇子一品太宰師葛原親王を小倉(往古は小椋庄)の産土神として祀り宜たりし地なり。 延喜式内の社格の尊厳は極めて高く皇室領荘園、幕藩時代信仰厚かりしところ、天正6年明智光秀金山城に陣して丹波攻略の兵火にかかり苅野宮及び社地悉く罹災し約94年間仮宮にて祀り、寛文7年現在地草木山カツラ山に社殿を建造し遷宮す。 古宮跡地には厳島神社の御分霊弁財天を祀り、旧社殿の石材を用いて神殿廻りに溜め池を造り■■池とせしも現在は水路変わりて水無く昔日の面影なし。神殿池に大樫、藤の巨木ありしも怪異の様相なる為伐採■■■尚存す。 殺生石は往古唯一の口伝物語の霊石なり。尊き神石にして又神怒あり。此の台地に鎮まり祀りて往古人々の霊位を慰め、遠き歴史の語部となる。土地狭長なれどその昔は人家多しと言う。昔を語る地名に太鼓田、宮田、馬出、明社向、沓掛、有地、諸越、小諸越等の水田あり。 東方の峻山金ガ山は法道山人の造りし古坂の道、奇岩鬼の架橋、親王の危急を救いし金色の鶏の物語等未だ語られざるも纏わる遺跡多し、史跡は日月と共に没し易し、この地に歩みて史跡を窮め、之を後世に伝え、史訓の発揮を願う。 昭和61年1月吉日。 社頭掲示板 |