「古は十町奥に社有後に此所に引移と云古跡を古宮と云金ケ坂の麓之石場より欅の大本一本有弁才天の池跡有」とある。 金ケ坂は現代の鐘ケ坂、当社の東、約500m、景勝の地で安藤廣重が「六十余州名所図絵」の中に「丹波鐘ケ坂」と題して描いている。 |
苅野神社 夫当社苅野神社者 皇暦第五十第桓武帝第3皇子、荘園領主一品太宰師葛原親王を祭神とす。仁寿3年(853)68歳薨ず。 醍醐帝延喜五年(905)小倉村苅野神社延喜式内社に列すとあり。全国3131社の神名帳に記載された格式の高い神社で氏子の守護神として、字苅野田に祀る。 長和九年(1012)小倉村大嘗会主基進供とあり。主基とは天皇践祚に新穀を奉る悠基主基、両斎国をいう。(御田植祭今尚現存7月15日) 文明三年(1471)管領細川勝元は久下重元に小椋庄領家職の安堵状を授くとあり。 久下地頭の下に小椋庄産土神として祀り来たりしが、天正六年12月7日(1587)丹波攻略の明智光秀金山城に陣し、麓の苅野神社及び社坊悉く兵火で焼失す。 寛文七年(1667)苅野田の仮宮より現在地に造営遷宮し苅野田の跡地は古宮と称し現存す。 正徳四年(1714)本宮殿再建す。彫刻の手法は桃山・江戸初期粋を尽くした豪華佳麗な作なり。 社家には片瀬家、社坊には真言宗高野山宝城院末の竜泉寺あり、明治維新の際社僧復飾して日置左京、片瀬権守と共に奉仕せしが、帰農し、本社祠掌の儀は柏原八幡神社祀職千種家の兼掌するところとなり今に及ぶ。 幕藩時代は上小倉植村土佐守後水野鶴牧藩下小倉は織田山城守と知行所を異にするも、両村共同体は産土神として信仰崇敬深きものなり。 昭和56年記 氏子 社頭掲示板 |
苅野神社 延喜式内社。 本殿側面妻飾彫刻の手法は、桃山・江戸初期の造りである。屋根は文政10年(1827)桧皮に葺き替えられ、昭和54年(1979)には銅版葺となる。本殿内部からは、上棟式に使用されたと考えられる3丁の木槌が発見され、正徳4年(1714)の墨書が有り、木槌3丁は市指定文化財となっている。 文明3年(1471)時の管領細川勝元は、久下重元に小椋庄領家職の安堵状を授けている。領主久下氏の下に、小椋庄産土神として祀られてきたが、明智光秀が、織田信長「丹波攻略」にあたり、天正6年(1578)12月多紀郡(篠山市)境鐘ヶ坂の山上に位置する金山城に陣した際、其の麓に建つ苅野神社や社坊は悉く兵火によって焼失。 寛文7年(1667)苅野田の仮宮より現在地に造営遷宮され、旧苅野田の跡地は古宮と称し現存している。幕藩時代の知行は上小倉が植村土佐守の後・水野鶴牧藩、下小倉は織田氏の柏原藩と知行所を異にしているが、上・下小倉両村の産土神として信仰され崇敬されてきた。 兵庫県神社庁 |
苅野神社本殿 市指定文化財 苅野神社本殿 附 木槌3丁 1棟 指定年月日 平成15年10月20日 所有者・管理者 上下小倉共有財産管理組合 苅野神社は、延喜式内社であり、上・下小倉の鎮守社として江戸時代を通して両集落の「宮の党」という宮座によって守られてきた。 本殿は、三間社流造で、正面に千鳥破風、軒唐破風を付す。正面と両側面の三方には縁をまわし、脇障子を立てる。妻飾には、虹梁を三段に重ね、その間に蟇股と平三斗を配し、最上部は大瓶束と笈形とする。屋根は、当初板葺であったものが文政10年(1827)桧皮葺に葺き替えられ昭和54年に銅板葺となった。 本殿内部からは、上棟式に便用されたと考えられる3丁の木槌が発見され、正徳4年(1714)の墨書があることから、建立年代も同年と確認できる。この木槌には「大工丹波氷上郡野山住山本金兵衛」と大工名も記されており、建立年代、大工名の判明する建築として当地方の基準となるものである。 平成16年11月 丹波市教育委員会 社頭掲示板 |