塩田谷の水を集めて東流する曽根川は、本社前で大きく迂回して北流する。このような自然から社名が生まれたとする。曽根川の曲がる所の石の多いイソべ(磯部)に鎮座する神であるとする。 塩田村にあつた何鹿神社の地は明らかでないが、或いは塩田谷の深奥に鎭座する岩山神社の地かもしれない。 例祭日には、当社の西方約500mの所の神輿岩(今は岩もなく宅造地の一角)をお旅所とし、山内庄七社の神輿が集合し祭禮を行なつたといわれる。 |
由緒 掲示板 白鳳時代(推古朝代)に既に祀られていた。大宝2年(702)から出石鹿磯部神社と称されていた。何鹿神社と呼ばれるようになつたのは正和4年(1315)からである。 永禄12年(1569)寛永15年(1638)弘化5年(1847)三回の建築記録がある。現在の社殿は弘化5年のものである。 社殿の様式、三間社流れ造り、向拝中央に軒唐破風を設ける。梁などの構造部材は太く丹念に仕上げられ直線的な強さを示し厳正な形をしている。彫り物は紅葉と鹿龍が彫られその姿は優しく全体の謹厳な雰囲気を適度に柔らげている。 神社の創建は古く文化財的な価値も高い、付近には古墳もあり多くの伝説がある。その記録は神社に保管されている。 花おかや夜をふかし野にきてみれば衣のすそはしおたえにけり。一休和尚 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
何鹿神社 祭神 大山祇命 品陀別命 彦狭知命 天武12年すでに社が遭ったと伝えられ、大宝2年(702)から出石鹿@部神社、正和4年(1315)から何鹿神社と呼称している。 永禄12年(1349)再建、弘化5年(1848)再建。 貞和5年(1349)に書かれたと認められる大般若経が明治6年(1873)まで社内に存在していた天正の頃まで中丹波山内荘7社の神輿が当社に集まり祭礼式を執行した。 本社は山内の荘の一宮とされ、昔から荘内の人々が尊崇し神輿の存在中は例祭日に右7社の神輿をかついできて御旅祭礼があったと伝えられる。 平成11年5月12日不審火により全焼した本殿は弘化5年2月再建のもので三間社流造檜皮葺き(50u)軒唐破風の向拝を一間に造る形式、端正な中に柔らかな味を漂わせ江戸末期の特徴をよく現した建物でその上に覆い屋鋼板葺き(82u)があった。 現在の社殿は、平成11年氏子の中より再建委員八名、委員長は村山和夫を選出、再建の議がまとまり、平成12年4月より十年間、氏子一戸につき毎月2000宛の積み立てにより工費を拠出することとなり、設計を谷垣俊平、施工を松本寛・森次郎・北村亨・西畑幸二共同企業体、代表松本寛が担当、平成12年4月25日着工、平成13年10月完成。その工費約七千萬円その規模形式は三間社流造銅板葺神饌所を併設し約60uである。 社頭掲示板 |