粟鹿とは、鹿が粟を三束くわえて山(粟鹿山)から現れ、人々に農耕を教えたことからつけられ、粟鹿神社にその鹿が祀られていると言う。 和銅元年8月の『粟鹿大明神元記』によると粟鹿神社の祭主は、古代に神部氏が務め、その後、日下部宿禰が務めるようになった。 社伝によれば祭神は三社九神と称し、上中下の三社に分かれ、上社に彦火々出見命ほか二神、中社に竜神(女体神也)ほか二神、下社に豊玉姫神ほか二神を祀るともいわれる。 |
粟鹿神社 人皇第10代崇神天皇の御宇皇威未だ及ばざる地方に皇族四道将軍を派遣し大八洲を平定して大和朝廷の基礎を確立したもう。 即ち人皇第九代開化天皇第三皇子日子坐王その四道将軍として崇神天皇の勅を受け山陰北陸の要衝丹波道■に任ぜられ玖賀耳三笠等の豪族を討伐し丹波道一円を征定治績を挙げ大いに皇威を振作して天皇の論旨に答う。 粟鹿山麓の粟鹿の郷は王の薨去終焉の地にして、粟鹿神社裏二重湟現存の本殿後方の円墳は王埋処の史跡とす。 社頭掲示板 |
粟鹿神社 和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵) 当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。 人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。 粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。 兵庫県神社庁 |