御穂神社
みほじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】御穂神社 駿河国 庵原郡鎮座

   【現社名】御穂神社
   【住所】静岡県静岡市清水区三保 1073
       北緯35度0分1秒,東経138度31分13秒
   【祭神】大己貴命 三穗津姫命
   【例祭】11月1日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】日本武尊東征の御世鎮座
       貞観7年(865)12月21日従五位上『三代実録』
       元慶3年(879)4月5日正五位下『三代実録』
       大永2年(1522)10月兵火焼失
       明治8年郷社
       明治39年9月14日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】以前は天神森という地に祀られていた
        大永2年(1522)200mほど離れた現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三穗大明神」「三保大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・神樂殿・厩・手水舎・社務所

   【境内社】神明宮・八雲神社・産霊稗社・子安神社・胡夫大夫神社
        稻荷神社・磯前神社・呉服神社・八幡神社


三保第一小学校西に鎮座する。
以前は天神森という地に鎮座、大永2年(1522)10月、細川孝範の兵火に罹り、200mほど離れた現在地に遷座。
「御廬神社」とも記され、「廬」とは仮に設けられた屋舎であり、「御廬」とは神がお住になるところで、もともとは神事のたびに仮屋が設けられ、神が渡御・降臨された神聖な場所ではなかつたかと思われる。
往古にはこの地は島として独立していたと思われる。それも信仰の島、神の坐す島として、その対岸の廬原郡の人々に崇敬されていた。
神社境内と参道(神の道)は世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ「三保の松原」の範囲に含まれている。


由緒

大国主之命は須佐之男之命(すさのおのみこと)の御子で、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)(日本の国)を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊(たかむすびのみこと)の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后(おおきさき)とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(かむなび)(天神の森)に鎮座された。これが当御穂神社の起一般民衆より三保大明神として親しまれています。彦神は国土開発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知られています。御神徳は顕著(いやちこ)に夫婦和合縁結び、安産子育て(きれいで健康な頭の良い子)、福徳医薬の神、また航海安全、漁業、農業、文学、歌舞、音曲の神とも仰がれています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




御穂神社

御穂神社 (三保大明神)由緒
清水市三保1073三番地鎮座
主祭神 大己貴命(大国主命、三穂津彦命)
三穂津姫命
祭 典
例祭 11月1日 湯立の神事
筒粥祭 2月14日の夜より同15日
由緒略記
創建の時は不明であるが、千古の昔より、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、国土開発の神、海の神と崇められると共に天から天女が舞い降りた「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く朝野の崇敬をあつめた延喜式内社である。
中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したが、寛文八年落雷のため焼失し、今の社殿は、その後仮宮として建てられたもので、本殿は清水市指定有形文化財に指定されている。信仰は三保の氏神様・清水・庵原の総氏神として親しまれ文化発祥の地である。祭神の神徳により、お祭や、正月など全国各地より多くの人々が参拝する「御神木羽衣の松」の名社です。

社頭掲示板



御穂神社

1.名称 御穂神社
1.御祭神 大己貴命 別命三穂津彦命亦大国主命 三穂津姫命の3柱神
1.御創建 古代 年代不詳旧県社
       延喜年間従五位に叙せらる
1.所在 清水市三保1073三番地 清水駅より6Km
1.例祭 2月15日 筒かゆの御神事
        14日 榊迎(神迎)の御神事
      11月1日 湯立の御神事
             巫女舞(羽衣の舞)
1.境内地坪数 5000坪(16500u)
1.末社数 10社
1.氏子数 3500戸
1.建物 御本殿 5坪 拝殿10坪 舞殿5坪 社務所60坪 宝物殿15坪
      徳川家康駿府(静岡)隠棲後本殿以下十数棟寄進
      寛文年間失火焼失後仮宮し現在に至る
1.神領 107石 徐地37石 海上一里間の海上権
1.宝物 刀剣 長さ3尺1寸4分(95.4cm) 反り1寸4分(4.6cm)
      伝三条小鍛冶宗近作
      三保松原 羽衣の松 特別天然記念物指定
1.古より朝廷を初め武将等の崇敬極めて篤く一般民衆より渚の神とし航海安全・大漁守護神とし尚夫婦和合・縁結び・農業・文学・歌舞・音曲、現在では交通安全の神として尊信せられている。

社頭掲示板



三保大明神御由緒

御祭神
大己貴命(おおあなむちのみこと)※別名、大国主命(おおくにぬしのみこと)・三穂津彦命とも申し上げる。
三穂津姫命
二柱神
大国主命は須佐之男命(すさのおのみこと)の御子で、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)(日本の国)を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后(おおきさき)とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衝三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(かむなび)(天神の森)に鎮座された。これが当御穂神杜の起源でありまして、昔から朝廷を始め、源、今川、武田、豊臣、徳川等の武将が篤く崇敬され、一般民衆より三保大明神として親しまれています。
彦神は国土開発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知られています。
御神徳は顕著(いやちこ)に夫婦和合縁結び、安産子育(きれいで健康な頭の良い子)、福徳医薬の神、また航海安全、漁業、農業、文学、歌舞、音曲の神とも仰がれています。
日本書記巻二に「高皇産霊尊の勅に日く、今吾女三穂津姫命を以て、汝に配(あわ)せて妻とせむ、宣しく八十萬神(やそよろずのかみ)等を卒(ひき)いて皇孫の為(た)めに護り奉れ、乃(すなは)ち遷(かえ〕り降らしむ」云々とあり。日本惣国風土記に「大己貴命天上(あめ)に登り順う可き条々を奏(もう)し、天之日鷲大羽鷲羽車に乗り三保の御崎(みさき)に休み給う云々
旧事記に「大己貴命天の羽車大鷲に乗り妻妾(つま)を覚(もと)む」云々とある。
諸神祭式に人皇十二代景行天皇十年(約千九百年前)、日本武尊勅を奉じ当神杜に官幣を供し圭田(神田)五百畝を献納した事見え、類聚国史に奈良朝光仁天皇(四十九代)宝亀年間(約千三百年前)従一位に敍せられ、醍醐天皇延喜年間には神名帳に式内杜として明記されている。 社領 朱印高は百六石、除地三百七十一石余を尚陸地より梅上一里の海上を領有し漁獲高の七分の一を神領とした。
■社殿 王朝の制は国司修造し、武家時代に入り鎌倉時代幕府修造せしを大永年間細川弾正の兵火に遭い、徳川家康慶長年間本殿以下十数棟を寄進し美観を極めた。寛文八年(三百年前)落雷のためことごとく焼失し、現今の御社殿はその後、仮宮(かりみや)として建てられたままのものであるが、御本殿は江戸中期の代表的神杜建築物である。
■子安神社 安産と子育ての神さまとして古くから知られている。
安産のお礼に底のない柄杓を奉納する奇習がある。
■例大祭 十一月一日湯立の御神事 火の舞 巫子舞(羽衣の舞)
■筒粥(つつかゆ)祭 当神社御創建以来の御神事で、二月十四日の深夜より十五日の未明にかけて行われるものである。夜半、羽衣の海岸で神迎の神事を行いあらかじめ拝殿の前庭にすえられた大釜で筒かゆを焚き上げて、その竹筒の中に入りたる粥の分量によりて五殻その他の農作物、漁業及び株式の吉凶の占いを行う。
尚、御粥をいただく者は無病息災疑いなしと伝へられる。
■三保の桜より詩歌に詠(よ)まれてきた三保の松原に散見する桜も、衰退し古の画影を偲しのぶこともできなかったが、最近境内に植えられた珍種、牡丹桜は三保の新風物の一つともいえる。
■羽衣の舞
神代より当神社に伝承されている巫女舞で、約干二百年の歴史のあるわが国最古の倭舞(やまとまひ)であります。当神社では、春・秋の例大祭に境内の舞殿で、また四月の羽衣祭には羽衣の松の下で奉納されます。
羽衣の舞歌詞
有度浜に天の羽衣昔きて
振りけん袖もかろやかに
かろやかに(三節略)
「いや疑いは人間にあり
天に偽りなきものを」
りんとした涼しい優美な声で天女は伯梁に申しました。
「羽衣を返し興うれば少女は衣を着しつつ電裳羽衣(げいしょううい)の曲をなし」略謡曲"羽衣"
■三保塚間遺跡出土品(円城坊古墳)
?怨、土錘、獣形土器(弥生式)杯、注壷、斎瓶(須恵器)石棺・宝物殿の東側にある石棺の一部は古代、当地方を治めた豪族、庵原君三代目のものなりという。
■三保社記
亨保年間 志貴真澄著 景行天皇(約千九百年前)御祭事の事見ゆ
■羽衣の裂(きれ)
天人羽衣の物語りに付随せる天女羽衣の一片にして漁師伯梁の手に留められしという。推定千二百年以前のものであって、此の織物の文様等の研究から西域、今の印度支那、西蔵(ちべっと)渡来の逸品であろう。当時、比禮(ひれ)(肩に掛けた巾の狭い長い布)裳(も)(現代婦人用のスカート様の品)に使用。
■羽衣の笛
日本古伝統の舞楽なる東遊駿河舞(あずまあそびのするがまい)は、二十七代安閑天皇(千四百五十余年前)より宮中において行われているが、その発祥は当神杜二神降臨の物語り訛によるものと伝えられている。羽衣の笛は前記羽衣の舞に吹奏されしもので、その造りは雅趣に富み楽器の逸品として名高い。
■糸巻の太刀(重要文化財)
鎬造、庵棟、鍛板目、刃文直刃、(長さ九十五・ニセンチ、反り四・ニセンチ)こしらえ鎌倉時代革柄巻、目貫(めぬき)樫の木の枝を面白く彫刻、伝三条小鍛治宗近作、源義経の臣鈴木三郎重家奉納、安倍郡大谷村(久能山山下、今の太谷)居住
■三保古絵図
三保地名の起り、三つの崎(崎のことをほという)があるから三保という。
■大壼並漆塗巴紋椀
鎮西八郎源為朝の使用の品と伝えられる。
■その他
武田、今川、豊臣、徳川の諸家より所領五百石の朱印他数十点。
■三保松原 白砂青松白つつじ咲き匂い、松原の浦波洗う、富嶽の遠景神秘天恵の地は、日本新三景の随一と称せられて名勝地に指定せらる。
■羽衣の松
謡曲天人(羽衣)は前記二神降臨を物語り訛したと言われ、天女が羽衣を脱ぎ掛けた松と伝えられる有名な羽衣の松は、当御穂神社正面松並木参道の海岸にある。
尚風土記所載の羽車磯田祠が松の下に鎮座する。

由緒書



謡曲羽衣

いかに申し候。御姿を見奉れば、あまりに御いたはしく候ふほどの、衣を返し申さうずるにて候。
あらうれしや候。こなたへ賜り候へ。
しばらく候。承り及びたる天人の舞楽、ただいまここにて奏し給はば、衣を返し申すべし。
うれしやさては天上に帰らん事を得たり。この喜びにとてもさらば、人間の御遊の形見の舞、月宮を廻らす舞曲あり。ただいまここにて奏しつつ、世の憂き人に伝ふべしさりながら、衣なくてはかなふまじ。さりとてはまづ返し給へ
いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上り給ふべき。
いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを。
あら恥かしやさらばとて、羽衣を返し与ふれば乙女は衣を着しつつ、霓裳羽衣の曲をなし、天の羽衣風に和し、雨に潤ふ花の袖、一曲を奏で舞ふとかや。

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謡曲「羽衣」と三保ノ松原

地上に舞い降りた天女が浜辺の松に懸け忘れた羽衣を漁夫白竜に拾われ、それを返してもらうために天人の舞を舞うという「羽衣」伝説は日本各地にありますが、駿河国三保ノ松原を舞台としたのが本曲です。そのときの舞が後世に伝わって東遊の駿河舞となったと言われております。
謡曲では、天女は漁夫から羽衣を返してもらい、愛鷹山や霊峰富士山を見おろし乍ら昇天してゆきます。そのさまは一幅の絵のようで、能の中でも、最も秀れた曲として、多くの人々に愛好されてきました。
謡曲史跡保存会

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神馬の由緒

元は木の馬であり、左甚五郎の作といわれ安永2年(1773)駿府大火で、静岡浅間神社の二頭の神馬が、当社に逃げ一頭は残り一頭は戻ったと伝えられている。
明治45年北原白秋来清のとき詠まれたチャッキリ節に「賎や賎機浅間さまの白いお馬よ三保へお馬よなぜ逃げた」と唄われている。今も浅間さんには黒いお馬さんの馬屋と空屋の馬屋がある。
このように由緒ある神馬は古くから信仰され親しまれてきた。当社の十一月の例祭、二月の筒粥祭に子どものみお馬さんの腹の下をくぐり、お供えのお豆を食べると「かんしずめ」「はぎしり」「寝小便とめ」などの病気がなおると信仰されている。
現在、神馬のご神徳により、おせんげんさまの神馬と共に「なんでも叶う」叶え馬としてお守をうけて絵馬に願事をかき奉納し祈願する。願事が叶い感謝のお礼参りをする人が年々増えている。

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名勝 三保松原

霊峰富士の眺望、絶景をもって天下に識られているここ三保の松原は、遠く万葉歌人に詠歌され、また、日本の伝統芸術である能「羽衣」によって多くの人々に親しまれている名勝地である。
大正5年5月には、日本新三景のひとつに選ばれ記念碑が建っている。
四時緑たたえ、東遊の駿河舞を偲ばす。
また、欧州各地で「羽衣」を演じ、まだ見ぬ三保の松原にあこがれながら若くして逝ったフランスの舞姫ジュグラリスの碑などが観光客に美しい夢を抱かせる。
国指定名勝 大正11年3月8日指定
静岡市教育委員会

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羽衣伝説

昔々、三保に伯良という漁師がおりました。ある日のこと、伯良が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」
ところが伯良は「天人の羽衣なら、お返しはできません。」と言いました。
すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません。」と言って懇願しました。
伯良は天上の舞を舞うことを約束に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞いながら、富士の山に沿って天に昇っていきました。

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