御穂神社
みほじんじゃ





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【御穂神社】

みほじんじゃ 静岡県清水市三保、
旧県社。この地は三保松原と呼ばれる天羽衣伝説で知られる。祭神は大己貴命三穂津姫命。『日本書紀』の一書に高皇産霊尊が大物主神に勅して「汝若以国神為妻吾猶謂汝有疏心故今以吾女三穂津姫配汝為妻宜領八十万神氷為皇孫奉護」として還降せしめたとあるが二神は羽車(天日鷲大羽鷲)に乗御して三保の浦に降臨、我が国土の隆昌を無窺に護るため三保の神奈備に鎮座したのが当社の創建であると伝えている。貞観7年(865)従五位上、元慶3年(879)正五位下に叙せられ延喜の制小社に列している。中世よりは武家の崇敬も高く徳川将軍家よりは一〇六石の社領が与えられたほか、衆庶からは夫婦和合、縁結び、安産子育て、福徳医薬の神として、さらに航海安全、大漁守護、農業、音楽、舞踊、織物の神としても崇敬された。例祭は11月1日で湯立神事があり、弓舞、剣舞、火舞の三舞の舞と呼ばれる行事がある。 また2月15日には筒粥神事がある。

神社辞典



【御穗神社】

御穂は假字也○祭神三穂津彦神、三穂津姫神、(駿河志)〇三保浦に在す、今有度郡に属す、(駿河志参考)例祭、月白、○惣國風土記五十四残欠云、薦河伊穂原郡御穂神社、所祭大己貴命、(又号御穂津彦、御穂比当ス也、)日本武尊奉勅供官幣、始献圭田五百畝、為國之三宮、所謂瀬織戸邑、矢部村、興津郷蘆崎役也、羽車磯田社離宮也、大己貴登天上奏可順條々、勿乗御天日鷲大羽鷲羽車休御穗御崎、後其鷲為挙之社曰天女脱羽衣謬羽車也、潮風不連時波濤不挙境、可奇之嶋也、」駿河國志云、三穂大明神の社は、有度郡三穗浦に鎮坐ます三穂津姫神、三穂津彦神二柱並びまします、出雲の國三穗の崎を御神縁の始として、跡を此浦に垂給ふ故、此島を三保の浦といふ、又は三穗の御崎といふ、此浦は有度蘆原二郡に跨りて、古の瑞籬の地は菴原郡なるべし、後の世に郡境の変革りて、、今は社地の北三保村貝島を郡境として、趾地は有渡郡の中となれり、三保村の漁家けみな奄原郡なり、また当御社は東照神君御造営ありて、結構にありしに、寛文年中炎上して、今は総に南向に二間四方の假本社、三間に四間程なる拝殿ばかりなり、縁起も神寳も炎上によりて、鎮座の事も詳ならずとり、
類社
出雲國島根郡美保神社
神位
三代実録、貞観7年12月21日戊辰、授駿河國從五位下御蘆神從五位上、元慶3年4月5日甲子、授駿河國從五位上御蘆神正五位下」國内神名帳云、從二位三保明神、
当代卿朱印高百六石

神社覈録



郷社 三穂神社

祭神 大己貴命 三穗津姫命
御穂、又御蘆、三穂、三保に作る、創立年代詳ならす、但延喜式に、蘆原郡御穂神社と見えたるは当社なり、郡の蘆原なるは、当時是地蘆原に属せるが故なり、後ち有度郡となり、今安倍郡と称す、式の小社たり、是より先、貞観7年神位奉授の事ありたり、三代実録清和天皇條に云く、
「貞観7年11月21日戌辰、授駿河國從五位下御蘆神從五位上」
と、次いで陽成天皇元慶3年4月5日、正五位下を奉授せらる、後ち神階累進し、諸郡神階帳には、「從二位一所三保明神(坐蘆原郡)と記せり、社家太田氏、当社に関する古文書を臓す、即ち、天正5年9月の武田勝頼の朱印状、次いで同年10月。8年4月、9年2月の朱印状あり、又同18年の豊臣秀吉の数書を臓す。慶長年間に至り、徳川氏社領百六十石を寄す、諸社御朱印写に云く、
「三保大明神社領、駿河國有渡郡三保、織部、別府三ケ村郡合百六石事、並臨浜二十九ケ所、舟二艘之内役義極山林竹木亦免除、任慶長7年12月10日、元和3年3月12日、寛永13年11月9日。先判之旨、永不可有相違者也、仍如件、
寛文5年7月11日」
外に除地二百七十一石四斗五升五合を有せりと、又慶長年間兵乱治まりて後、徳川家康当社を再建し奉りしが、寛文8年社殿回禄、諸宇尽く灰燼となりければ、社職再興せり、然れども古制の十分が一を存するのみ也と、古来三保村の産土神たり、明治6年郷社に列せられ、31年9月縣社に昇格す。 社殿ば本殿、拝殿、其他神樂殿、神饌所、社務所等を具備し、境内は2104坪(官有地第一種)あり、地は玉芙蓉の秀峯と相竝んで、東海の名勝の名を恣にせる、三保松原にあり、「有度濱に天羽衣むかしきて振りけん袖やけふのはふり子」と能因法師が詠せる羽衣の松は、社頭を距る東南数町の地にあり、高さ十丈周囲一丈、老枝蒼翠又幽邃の致あり、樹下一碑を樹つ、風雨剥蝕碑面辮ずべからざる所、老松と相侯つて古色掬すべし、当社は、羽衣の切れと称する五六寸の切を藏す、黒色し、又往昔の神木と称する樟樹の根を蔵す、同神木は社記に依れば、周囲七丈三尺と見えたり、又社鏡あり、正保2年の寄進に係る。

明治神社誌料






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