石城山の山上にある。 朝鮮式古代山城の跡であり、神籠石式山城の土塁の各所に祭器の破片が含まれているところから、石城神社は山城の築城以前に鎮座していたことが推測されている。 山城は石城山の八合目あたりをはちまき状に取り囲む列石で、その延長は約2,600mにも及び、東西南北の4カ所には水門が設けられている。 一説に、境外社の宇和奈利社が本来の石城山の神ともされる。山城築造により、朝廷から大山祇神・雷神・高おかみ神が勧請され、宇和奈利社に代わる山城の守護神として当社が創建されたとする説もある。 |
石城神社 石城神社と石城山神籠石 石城神 石城山は大和町の象徴であり、大和町の歴史のメッカとも呼ふべき山である。もちろん、それは石城神社と神籠石とがあるからであるが、両者ともにその起源は古代にさかのぼり、これまで神籠石は石城神社の神域を示す遣構とも考えられていたのであった。神籠石についての研究の歴史や、発掘に基づく最近の見解については次節以降で触れることとし、まず石城神社の歴史を入ることにしよう。石城神社の創建年代は明らかでない。しかし「石城神社縁起」によると、敏達天皇3年(574)に吉備屯倉の津史が当地こ来て、石城宮の勅額を石原男登世彦に授けたのが本宮の始まりであるという。これが敏達天皇の勅額と伝えられるものである。そして奈良時代、称徳天皇の御代に、社務を管掌させるための社坊が設けられた。これが神護寺である。同寺は今は跡のみを残すが、石城神社とともに石城山頂の月ヶ岳・鶴ケ岳・星ケ岳のご一峰にはさまれた平地に位置した。石城神社が正史に最初に出てくるのは貞観9年(867)のことである。すなわち、『三代実録』同年8月16日条に次のような記述がある。周防国正五位上出雲神、石城神、比美神、並授従四位下、従五位上剣神、二俣神、並五五位下すなわち、これまで正五位上であった石城神(大山砥神)に従四位下が贈られたのである。ちょうどこのころには、諸国の神々に対する贈位がひんぱんにみられる。殊に西国の神社に多い。当時は西海に海賊の横行が著しく、そのうえ北九州方面には新羅の来寇があって、緊張した状態が続いていた。政府は要地に武具を送って備えを固めるとともに、諸社に賊の鎮圧を祈願させているのであって、諸神への贈位はこの祈願に対するものであった。ところで、これより半世紀ばかり経過して延長二年(九二四)に『延喜式』が編さんされた。「式」とは律令を執行するにあたっての細則のことで、醍醐天皇の延喜5年(905)から編さんが始められたので『延喜式』と呼ばれている。この中の「神名式」に、周防国では熊毛神社や玉祖神社と並んで古城神社が載せられているのである。このように『延喜式』に収められた神社は「武内社」と呼ばれ、朝廷から奉幣が行われる例で、格の高い古社とみなされている。なお、同神社の本殿は文明元年(1469)に大内政弘によって再建され、室町中期のすぐれた建築として重要文化財に指定されている。 石城山神籠石の発見 古城山は大和町の東南端に位置する。標高360mばかりの独立峰であるが、山を取り巻く「神籠石」と、山上の延喜式内社「石城神社」で昔から有名である。神籠石とは、石城山の中腹を列石が延々と取り巻き、谷には本抜きの水門を設けた大規模な遺構である。この遺構のことは古くから知られていてご万禄年間(1690年代)の「石城神社縁起」には古城山について、「当山は高天に聾へ、諸峯に秀でて虚空に高し、八方に磐石を畳み、四方に四窟を構へたる神仙の寺山なり」と記している。そして、この四窟については里人の伝承として、この穴に山姥が住んでいて、毎年古城神社の祭礼の時、必要な膳具を書いて穴の前に置いておくと、山姥が見て穴の前に出して貸してくれていた。ところがある年、その膳具の多くを損したため、以後は貸してくれなくなった、といわれている。この四窟というのが実は水門であって、「地下上申絵図」には「石穴」として描かれている。このように江戸時代の神籠石は、石城神社の縁起が示すように、神社とのつながりから神域とみなされ、列石についての調査研究は特に行われなかった。こうした宗教的ヴェールに包まれた列石が、学問的な調査の対象となって脚光を俗びて来るのは明治時代、それも終わりごろのことであった。いわゆる神籠石は、九州北部から本州西部にかけて分布している。「香合名」「皮籠石」とも書かれるが、どこでもこの名称で呼ばれていたわけではなく、石城山の「山姥の穴」、福岡県鹿毛馬の「牧の石」、同県雪山の「筒城」、同県女山の「鬼の岩屋」などと、その所によって固有の名前で呼ばれていた。「神籠右」の名称が一般一化る。これを契機として神籠石の研究は盛んとなり一今日では北九州から瀬戸内海沿岸部にかけて、一四カ所の神籠石の存在が確認されるに至っている。ところで、石城山の神籠石が広く学界に紹介され、研究の対象となったのは明治42年のことであった。その端緒となったのは熊毛郡視学西原為吉氏の報告である。西原氏は福岡県の人で、かねてから同県女山の神籠右などを熟知していた。たまたま同年、熊毛郡視学として本県に着任し、11月、奉幣のため石城神社に参拝したが、そのとき遺構を視察し、これが神籠石の遺構であることに気付いて、京都帝大の喜田貞吉博士に連絡したのである。博士は当時の神籠右研究の中心人物であった。報告を受けた喜田博士は同年12月20日に来県して、さっそく石城山の調査を行ったのであるが、実はこれよりさき同月12日に、郡内の有志が石城山の「探険」を行っているのである。一行の一人である櫟村氏は、そのときの手記を防長新聞に投稿している。この手記は、当時の石城山周辺のありさまや、参加者の理解の程度がわかる興味深い記録であるので次に掲げておこう。 岩城山神籠石探検記 熊毛櫟村生 去月、西原為吉氏が発見せる熊毛郡岩城山に於ける神籠石に就ては、爾来未だ精細なる実地踏査の報告に接せず、こは従来、神籠石の何物たるやの解決上、学者の一大参考資料たるぺきを感ずると同時に、一種の好奇心に躯られ、同志相謀り登山踏査する所あり、今左に共の探検の梗概を記し、貴紙に投ず。 一、岩城山の地歴 本山は熊毛郡の中央部塩田、三輪、城南、田布施の四ケ村に跨る大山にして、山頂に式内岩城神社を祀る。祭神は大山祇命、或は日ふ周防国造の祖先天津彦根命なりと。俗に岩城判官の居城なりきとも云ふ。山脈四方に四穴あり。 二、神籠石の所在 西原氏の見解に依れば、神籠石はこの四穴を連結して、本山を囲繞せるものなりと。 三、探検隊の目的 同志は山頂の石城神社に集合し、地理上先づ東方大波野口岩穴より探検し、順次北方石穴、西方石穴、南方右穴に及び、以て西原氏の所謂囲繞せる石垣ありや否やを調査するに在り。 四、探検の状況 12月12日、気象快晴、所謂小春日なりき。本部南部地方の同志は、途を宿井村大鳥井筋に取り、北部同志は塩田小学校前より登山す。羊腸たる小径を登り、午前10時、約の如く岩城神社に会す。神官及び総代先着して斡旋甚だ力め、教導の労を取られしは一行の最も感謝せる所なり。社殿自ら神寂ぴ、老杉昼時く、馬場より苔の下道教丁にして仁王門に至り、途を転じて奇兵隊練兵場趾を過ぎ、荊棘を排して「ウワナリ」社前に出づ。井上君言ふ、神籠石を発見せりと、就て観るに、社前の手水鉢は実に一種の奇石にして古色蒼然、矩形長方にして六稜、滑磨せられたるもの、後にて思ひ合はすに、是れ後世神籠石の一部を利用せしものならんと。漸くにして東方石穴に到る。衆覚えず忽ち驚倒す。唯看る木立叢林の間、整然たる一条の石壁隠見して、厳然一大城壁に似たるものあり。大小の岩石は、恰も鬼斧神槌もて削られたるものの如き、石垣は其の組方の頗る古代風なることを認識すべし。一行は驚歓声裡、一々指点して絶壁を亘り、渓谷を越へ行くこと十数丁に及び、忽ち共の連絡を失ふ。衆右往左往、探検少時、浅見君一石を発見す。太さ約半畳敷余の人工石にして、巧に稜を磨す。衆「メントリ」石の称、或は浅海石の名を付す。蓋神籠石の一部なるぺきも、北辺土地墜落の跡あれば、其一部崩壊せしものなるぺし。其より北方塩田村を眼下に見て行くこと十数丁、此間、同形質の大石小石の散転せるもの枚挙に暇あらず。就中、宍戸石、河村石、東石、藤川石等は、最も将来探検家の目標たるべきものに属す。正午頃、終に北位石穴に達す。此の穴は四穴中長も完全なるものにして、水田の畦畔に開口して、左右に完全なる神籠石連続す。試に俯伏して穴中を窺へば、上下左右共、奇巧なる石畳にして其深さ幾百丈なるを識らず。渓水濠々として昼夜を舎てざるは、自ら千古の神秘を語るものの如く、一行をして覚へず考古学上斯の奇跡につき、速に斯道大家の其労を吝まずして、来って之が解決を下すの一日も速かならんことを望むの念を湧起せしめたり。行くこと数丁、斯の偉大なる石壁は再び神秘に包まれて、共の壁の方向には或は畑、或は桑田あるのみ。一行をして斯の無意自然の変遷と、有意人工の力の為めに、比等偉大なる古人の経営を破壊し去るの無情を歎かしめたりしが、先登の上田君、神官、石州君、和本君 由緒書 |
石城神社 国指定文化財 昭和10年6月指定 史跡 石城山神籠石 「神籠石」とは、巨石を一列の帯状に並べて、山の中腹から八合目辺を、はち巻状に取り囲んでいる古代の大土木工事の遺跡に付けられた名称である。 本山の「石城山神籠石」は明治42年秋、郡視学西原為吉(福岡県瀬高町東山村出身)によって発見された。それまでは、九州にしかないとされていたこの大遺跡が、本州でも見つかったので考古学会の注目するところとなった。この「神籠石」の列石線は、南側鶴ヶ峰(標高354mテレビ塔の立っている峰)近く(標高342m)を頂点とし下向きに回り、石城五峰(高日ヶ峰・里ヶ峰・鶴ヶ峰・築ヶ峰・大峰)を取り囲み最下部は北水門辺り標高268mまで下っている。列石線の総延長は2633mにおよぶ大規模なものである。 列石線が谷間を横切る場所には高い石垣を築き、その中央の下部に水門を設けている。この水門と東水門の中間に残っており列石線途中の要所に出入り口が設けてあったことを示している。 「神籠石」をいつ頃、だれが何の目的で構築したかについては、ながく定説がなく、神域説と山城説とで論争されてきた。 昭和38・39年、国の文化財保護委員会と大和村(現大和町)との共同による発掘調査の結果、従来知られていなかった空濠、柱穴、版築工法による大土塁が、数百m発見され古代山城であることがはっきりした。 昭和54年6月 大和町教育委員会 社頭掲示板 |
石城神社 石城神社本殿 国指定重要文化財 昭和25年8月29日 石城神社は延喜式内社で御祭神は大山祇神・高お神である。 本殿は御土御門天皇文明元年(1849)7月大内右京大夫太宰大弐政弘公の再建にかゝる。永正11年(1514)9月大内義與公、明暦2年(1654)閏4月毛利綱広公、寛政10年(1798)7月毛利斎房公修理を加えらる。明冶40年5月特別保護建造物に指定、大正10年(1921)国庫補助により解体大修繕。昭和4年7月国宝に指定。昭和26年国庫補助により屋根葺替。今日に至る。春日造柿葺桁行5.54m梁間2.85m軒高4.18m、棟高6.27mで柱面のとり方勾欄のそり方、斗共蟇股等に室町時代の特色を存す。 鎮座の年代は古く詳かでないが敏達天皇3年(571)冬圭田を献ぜられ御宸筆石城宮を賜うと伝えらる。 神位は清和天皇貞観9年(868)8月従四位下を授けらる。 明冶維新頃までは石城三社大権現とも称し武事・鉱山・農林の神徳高く近郷の総鎮守であった。 昭和58年4月 大和町教育委員会 社頭掲示板 |
石城神社 石城神社御鎮座の由来 一、祭神 大山祇神 雷神 高寵神 二、鎮座 敏達天皇3年(574)吉備屯倉の津史が当地に来て、「石城官」の勅額を賜ったのが本神社の始まりである。今年は数えて1434年目にあたります。 正史の記述は、「三代実録」に、清和天皇貞観9年8月16日「壬午」周防国正五位上、石城神、従四位下授けるとあり、旧社格は明治6年郷社に、大正2年県社に列せられた。 明治4年までは近郷八ヶ町村(現田布施町、光市大和地区、室積の一部)が氏子として祭典をなし、その御神徳は多くの人々の尊崇を受けている。 三、文化財 本殿重要文化財 本殿は、文明元年(1469)7月に大内政弘が再建したもので、のち永正11年(1514)9月大内義興が明暦2年(1656)閏4月毛利綱広が寛政10年(1789)7月毛利斉房が夫々修復した。安政4年(1857)8月には毛利敬親が、拝殿と楼門を再建したものである。 本殿は、明治40年(1907)5月27日に、特別保護建造物に指定され、昭和4年(1929)7月1日国宝に、昭和25年(1950)9月29日重要文化財の指定をうけた。 神籠石 石城山の八合目を列石が延々と取り巻き、谷には水抜きの水門を設けた大規模な遺構がある。これを神籠石と言い、九州北部から瀬戸内海にかけて見られ、現在十四ヶ所の存在が確認されており、学界では早くから注目されていた。この遺構が古代神聖な地域を限るために設けた神域説と、列石の上に土塁または木柵を設けた山城説が並存していたが、昭和38、9年の文化庁、山口県教育委員会、旧大和町の共同による大規模な発掘調査の結果、列石が山城の土塁の基底部であったこと、山城としての門址のあることが確認され、山城説が有力となった。 第二奇兵隊本陣跡地 幕末慶応元年社房であった神護寺に「第二奇兵隊」の本陣が置かれた。翌年に勃発した四境戦争の大島口の戦いにはここから出陣おおいに活躍した。現在跡地は神社の境内の一部となり、元内閣総理大臣岸信介氏作詩の「第二奇兵隊士碑」がある。 平成18年1月 山口県光市大字塩田2233 式内石城神社社務所 社頭掲示板 |