石城神社
いわきじんじゃ


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【神護寺仁王門】

第二奇兵隊関連史跡 神護寺仁王門 ( 随身門 )
現在は石城神社の随身門であるが、第二奇兵隊の本陣が石城山に移された時には神護寺の山門であった。 そして、仁王像が納められていたことから 「 仁王門 」 と呼ばれていた。
転陣後、仁王門は本陣の正門として役割を果たした。 また石城山頂付近の五つの峰 ( 石城五峰 ) を木柵でつなぎ、銃を持った隊士が見回りをしていた。 さらには、石城山への登山口に 「 如何なるものといえども入山を禁ず 」 という高札が立てられており、軍事基地の様相であったと推測される。
なお、仁王門では二人の隊士が銃を持って護衛していたが、衛兵所の空間を確保するため、仁王像を引きずり出したという逸話も伝えられている。
また、仁王門付近は訓練場所でもあった。 門の奥に野戦砲を据え付け、頂上の高日ヶ峰の山腹に打ち込む射撃訓練も行われた。 仁王門の柱には修理の手が加えられているが、刀傷が残っているとされている。 門の手前では、刀を使っての接近戦の訓練が行われた可能性もある。
現在では、瑞信三は格子戸の中に納められているものの、この門は、隊士の激しい訓練や駆け抜けていく様子を知っており、現存する貴重な物言わぬ証人ともいえる。
平成27年3月 光市教育委員会

社頭掲示板



【第二奇兵隊の概要】

第二奇兵隊は、江戸時代末期から明治維新にかけて長州藩で新たに軍事組織、「 諸隊 」 の1つで、石城山にに本陣を構えていました。 ここでは、第二奇兵隊の概要と関連施設についてご案内します。
1 諸隊の結成
1853 ( 安政元 ) 年、アメリカのペリーの来航後、国内では開国か攘夷 ( 外国を追い払う ) に意見が分かれます。 長州藩は攘夷を砲身に掲げ、1863 ( 文久3 ) 年5月10日に攘夷を決行しますが、アメリカやフランスから報復され、大きな被害が出ました。
こうした中、高杉晋作が奇兵隊を結成します。
これをきっかけとして多くの諸隊結成の動きが藩内に広がっていきます。
2 南奇兵隊の結成
周防の東部においても諸隊結成に向けて志士が集まり、第二奇兵隊の前身である「 真武隊 」 が新結成されます。 1865 ( 慶応元 ) 年1月、真武隊は専光寺( 光市 室積 ) に本陣を置きます。 そして隊士が300人を越えて手狭になったため、2月には本陣を普賢寺 ( 現 光市 室積 ) に移し、隊名を 「 南奇兵隊 」 にしました。
3 石城山転陣と第二奇兵隊結成
南奇兵隊の隊士はさらに増加し、400人を越えました。 そして1865 ( 慶応元 ) 年3月3日、石城山へ本陣を移転します。 理由としては、不信感を抱く岩国領への牽制、幕府軍との戦いに向けた本格的な実地訓練の必要性、隊士の士気高揚などが挙げられます。 岩城山は立地条件に加え、地形や自然環境の典においても、本陣の必要条件を満たしていました。
同年4月、長州藩は諸隊の整理統合を行います。 この時、南奇兵隊は藩の正式な隊と公認され、隊名を 「 第二奇兵隊 」 に改称しました。 この隊名は、奇兵隊の総督でもある山内海三郎が総督を兼ねたことによるものです。
4 揺らぐ第二奇兵隊
長州藩からゆるされた定員は 100人 ( 後に125人 ) であり、その2倍を越える隊士は1ヶ月交代で岩城山での訓練と下山による家業の従事に分かれます。しかし、待遇や武器の不足をめぐって隊は一枚岩となれず、緊張状態が生じます。
そして、1865 ( 慶応元 ) 年7月には、不満を持った一部の隊士が脱走し、石城山の麓の光明寺 ( 現 光照寺 ) に立て籠る事件が起きます。 さらに翌年4月には、約100人の隊士が武器を以って脱走し、倉敷 ( 現 岡山県 ) で幕府の代官所などを襲撃する事件が起き、戻ってきた隊士は粛清されました。
5 第二奇兵隊の活躍と終焉
1866 ( 慶応2 )年5月5日、第二奇兵隊は本陣を専福寺 ( 現 田布施町 ) に移転します。 6月には、第二次長州征伐 ( 四境戦争 ) の大島口の戦いに加わって大島の奪還に成功するとともに、大政奉還後の戊辰戦争においては、鳥羽・伏見の闘いに加わって勝利を収めます。
しかし帰藩した隊士に待っていたのは、上備軍の再編成に伴う諸隊の解体や廃止であり、隊士としての身分や特権を失うことになります。
平成27年3月 光市教育委員会

社頭掲示板



【石城神社本殿】

国指定文化財
建造物 石城神社本殿(いわきじんじゃほんでん)
明治40年5月27日指定
所在地 光市大字塩田  
 石城神社は延喜式内社で、由緒ある神社である。祭神は大山祇の神(おおやまつみのかみ)・雷神(いかづちのかみ)・高寵神(たかおかみのかみ)で、武事・鉱山・農林の神をお祀りしている。旧号を三社権現(さんしゃごんげん)といっていたが、明治元年石城神社と改称した。
 石城神社の創建は明らかでないが、社伝によると、敏達天皇三年(五七四)の鎮座と言われ、天皇の勅願と伝えられる「石城宮(いわきぐう)も保存されている。
 本殿は、文明元年(1469)大内政弘が再建したものと伝えられている。桁行(けたゆき)5.54m、梁間(はりま)2.85m、正面入母屋造り、背面切妻造り妻入り、こけら葺(ぶき)、四囲に縁をめぐらせた春日(かすが)造りである。柱面のとり方、勾欄(こうらん)のそり方、斗組(とくみ)、蟇股(かえるまた)等に室町時代の特色を残している。
 大正10年(1907)5月27日に特別保護建造物に指定され、昭和4年(1929)7月1日国宝に、同25年(1950)8月29日に重要文化財の指定を受けた。
 平成19年9月
光市教育委員会

社頭掲示板



【石城神社】

石城神社御鎮座の由来
一、祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ) 雷神(いかづちのかみ) 高寵神(たかおかみのかみ)
二、鎮座 敏達天皇3年(574)吉備屯倉(きびのみやけ)の津史(つのふひと)が当地に来て、「石城官」の勅額を賜ったのが本神社の始まりである。今年は数えて一千四百三十九年目にあたります。
正史の記述は、「三代実録」に、清和天皇貞観9年8月16日「壬午」周防国正五位上、石城神、従四位下授けるとあり、旧社格は明治6年郷社に、大正2年県社に列せられた。
明治4年までは近郷八ヶ町村(現田布施町、光市大和地区、室積の一部)が氏子として祭典をなし、その御神徳は多くの人々の尊崇を受けている。
三、文化財 本殿重要文化財
本殿は、文明元年(1469)7月に大内政弘が再建したもので、のち永正11年(1514)9月大内義興が明暦2年(1656)閏4月毛利綱広が寛政10年(1789)7月毛利斉房が夫々修復した。安政4年(1857)8月には毛利敬親が、拝殿と楼門を再建したものである。
本殿は、明治40年(1907)5月27日に、特別保護建造物に指定され、昭和4年(1929)7月1日国宝に、昭和25年(1950)8月29日重要文化財の指定をうけた。
神籠石(こうごいし)
石城山の八合目を列石が延々と取り巻き、谷には水抜きの水門を設けた大規模な遺構がある。これを神籠石と言い、九州北部から瀬戸内海にかけて見られ、現在14ヶ所の存在が確認されており、学界では早くから注目されていた。この遺構が古代神聖な地域を限るために設けた神域説と、列石の上に土塁または木柵を設けた山城説が並存していたが、昭和38、9年の文化庁、山口県教育委員会、旧大和町の共同による大規模な発掘調査の結果、列石が山城の土塁の基底部であったこと、山城としての門址のあることが確認され、山城説が有力となった。
第二奇兵隊本陣跡地
幕末慶応元年社房であった神護寺に「第二奇兵隊」の本陣が置かれた。翌年に勃発した四境戦争の大島口の戦いにはここから出陣おおいに活躍した。現在跡地は神社の境内の一部となり、元内閣総理大臣岸信介氏作詩の「第二奇兵隊士碑」がある。
平成23年1月 山口県光市大字塩田2233 式内石城神社社務所

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