山家神社
やまがじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】山家神社 信濃国 小県郡鎮座
          (奥社)山家神社奥社

   【現社名】山家神社
   【住所】長野県上田市真田町長 4473
       北緯36度27分1秒,東経138度19分51秒
   【祭神】大国主命 伊邪奈美命 菊理姫命 (配祀)日本武尊 神八井耳命
   【例祭】4月17日近い日曜日 例大祭
   【社格】旧県社位
   【由緒】創立年は不詳
       養老2年奥社を四阿山絶頂に奉遷す
       天安元年(857)6月16日、暴風雨洪水社殿崩壊
       明治2年社号を山家神社に復した
       明治6年4月郷社
       同40年4月5日神饌幣帛供進指定
       昭和5年6月19日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと旧字古坊に鎮座していた
        天安元年(857)6月16日、暴風雨洪水で現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「白山大権現」と称していた
   【公式HP】 山家神社
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       祝詞殿・拝殿・神饌殿・樂殿・神庫・社務所

   【境内社】駒形社・稲荷・諏訪社・北野社・浄定社・日枝社
       大歳御祖社・建雄社・子安社・金刀比羅社・雨降社・七家明神祠

   【別当】かって境内には白山寺があり、白山大権現と称されていた
   【境内図】 境内図

四阿山山頂に山家神社奥宮が鎮座しており、当社は里宮にあたり、山家神社本宮と称している。
奥社は二社あり、南向きの社を信州向社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)という。
本社はもと旧字古坊に鎭座していたが、文徳天皇天安元年(857)6月16日、暴風雨洪水にして社殿を崩壊し、神森を押し流して現在の地に遷つたという。
神迎への神事が、6月15日及び11月17日に行われ、6月15日は、本宮より親神様を涼しい奥宮へ送り、子神様を本宮へ迎へ、11月17日には、逆に親神様を本宮へ迎え、子神様を奥宮へ送るという。
一説に、始め岩井山に鎮座し、後に、旧字古坊に遷座し、天安元年(857)現在の地に遷という。


山家神社

【社名】 「やまがじんじゃ」と称する。また、白山信仰(四阿山)の社として、「はくさんさま」と呼ばれる。 『倭名抄』によると、山家郷と表記する郷は全国に六郷あるが、訓の無いものが多い。あっても「ヤマムベ」(筑摩郡)とあり、「ヤマガ」と読むのは珍しいのではないか。ヤマムベは、山部、山辺にも通じようか。又は、字義どおりとすれば山の中の家、山間の家、 あるいは山里の家の意か。九條本訓なし。吉田家本「ヤマイエ」。倭名抄の高山寺本には「也末加(ヤマカ)」とみえる。
【延喜式内社とは】
式内社は、醍醐天皇の御代に編纂された延喜式という法典に、その社名が登載された神社であり、それだけで千年以上の古社といえる。その数は、2861社(3132座)であり、長野県内では46社(48座)を数える。 同じように国で管轄された国分寺、国分尼寺は、国毎に各一寺であるから、66ヶ国で132寺である。延喜式(全五十巻)は、養老令(天平勝寶9年〈757〉施行)の施行細則であり、延長5年(927)に完成、康保4年(967)に施行されている。神社が登載されているのは、その巻九、十の神名帳(上下)である。
【由緒】
創立年は不詳であるが、延喜式神名帳収載の山家神社で、大国主神を祀って旧山家郷の産土神としたものである。景行天皇の御代(71〜131)に日本武尊を合祀したと云う。社伝に、「本社の別当浄定というもの越の泰澄の徒弟にして加賀の白山比め神社を信仰し、其の神霊を勧請し、養老二年奥社を四阿山絶頂に奉遷す。」とある。この奥社は二社あり、南向きの社を信州向社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)という。
  四阿山に関する記述は、明治2年7月の「乍恐奉差上口上書之事」(松尾家文書)に 本社東の宮 七尺大板葺 同 中の宮 但し岩屋  
 同 西の宮 一丈 大板葺
   社地 東西三里余
      南北二里余
 末社 東花童子 長さ三間 横二間 大板葺
 同 西花童子 二尺 同断  
 同 船ヶ尉 二尺 同断
 同 駒形 二尺 同断  
 石鳥居 高さ九尺
 真田様御代々までは御修覆の地に御座候得共、仙石様御代以来修理の節は、御柴下しおかれ、并びに附属人足修理入目の義は御家中御領分中勧化仰せられ候(略)此の後、末社百二十社と申す石祠は安永年中信心輩を以て建立仕り候、それ故か自身再建致し申候 とある。
  これにより、四阿山の広大な土地を有し、社殿等の普請は領主から材木の提供を受け、その他は広く浄財を募って自らが行ったことが分かる。
 本社はもと旧字古坊に鎮座していたが、文徳天皇天安元年(857)6月16日、暴風雨洪水にして社殿を崩壊し、神森を押し流して現在の地に遷ったと伝えられている。尚、この時、神主の清原眞人某は姓を押森と改称したと伝わる。
  『神祇志』に「山家神社、今在四阿山上、即古山家郷之地、郷名今存干真田村、其地又有一祠、曰山家社、蓋後世所分祠也。」とあり、『神祇志料』には「山家神社、今真田村山家にあり、白山神と云うと見ゆ。」とある。
  山家神社は農業、水利、疫病、盗難、その他諸々の災厄、祈雨、祈晴に霊験あらたかな為、古来、国司、守護職、武門、武将より一般民衆に至るまで、崇敬極めて厚く、その信仰は長野県下はもとより、埼玉、群馬、遠くは兵庫県にまで及んでいた。特に真田氏代々の崇敬深く、奥社(四阿山)並びに本社の営繕や寄進を受けている。慶長5年(1600)9月兵火にかかり全焼し、翌六年に真田信幸公が再建した。
  元和8年(1622)1月、仙石氏の上田入部以来、忠政、政俊、政明の三代85年間、営繕を始め祭典費などの寄進を受けた。更に、宝永3年(1706)松平氏の上田入部以降、明治四年の廃藩置県に至るまでの間、崇敬深く、祭典費はもちろんのこと、営繕費、その他に至るまで藩費で賄われた。当時は上田城の鬼門除の神であり、又、城の守護神であった。
  中世以降、当時の神仏混淆の結果「白山大権現」と称し、白山寺と一緒にあり「白山様」と呼ばれていたが、明治維新(明治2年)に神仏混淆が廃止され、社号を旧来の山家神社に復した。
  明治6年4月に郷社に列せられ、同40年4月5日神饌幣帛供進指定を受け、昭和6年6月19日付で県社に昇格した。
  社殿は、明治20年の真田大火の類焼で全焼、翌21年に再建された。

公式HP



山家神社

山家神社は、後醍醐天皇の時代に編纂された延喜式(927年に完成)に登載がある由緒ある神社です。名将幸村で名高い真田氏や代々の藩主を始め、多くの人々から崇敬を受けて現在に至っています。創立年は不詳ですが、景行天皇の御代(71〜131)に日本武尊を合祀したと伝わっていますので、それ以前からなんらかの形で存在したと考えられます。御神徳としましては、農業、水利、疫病、盗難、その他諸々の災厄、祈雨、祈晴に霊験あらたかな為、古来、国司、守護職、武門、武将より一般民衆に至るまで、崇敬極めて厚く、その信仰は長野県下はもとより、埼玉、群馬、遠くは兵庫県にまで及んでいました。特に真田氏代々の崇敬極めて厚く、奥社並びに本社の営繕や寄進をうけています。尚、奥社ですが、群馬県との境の四阿山山頂にあり、加賀国一ノ宮『白山比盗_社』の御分霊を合祀し、「白山さま」とも呼ばれています。四阿山は神の山であり、そこから流れ出る神川の清流は生きとしいけるものに大いなる恩恵をもたらしています。引き続き真田神社ですが、真田氏は周知の如く当地より出て、全国に名を馳せた武将です。上田城で二度にわたり徳川の大軍を撃破し、また、大阪の冬、夏の陣では幸村の活躍により徳川軍を大いに苦しめ、「真田日本一の兵」と言わしめました。一方、領主としては善政を敷き、領民を大切にしました。その遺徳を偲び、且つその神霊を慰め、地域の鎮護とする為、建てられたお社です。

長野県神社庁



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