明治12年、本堂裏の「歳神堂」が城山に移された。 その歳神堂跡へ大本願境内にあった「大本願墓地」と「大奥墓地」が移された。 『日本書紀』持統天皇5年(691)8月23日、「使者を遣わして、竜田風神・信濃の諏訪(大社)・水内社などの神を祭らせた。」と記されているが、善光寺はその水内神社の社地に建てられたのではないかという説がある。「釈日本紀」では健御名方富命彦神別神社が水内神社のことであるとしている。 芋井三宝記の著者岩下櫻園氏は「明治維新に至るまで、善光寺金堂の後方に年神堂と云ふものあり。年中行事中12月中申の日の夜、如来御年越の式は此の堂に於て行ふを恒例となす。(略)当夜は、金堂を始め、市中の町家に至るまで悉く戸を鎖し、寺中は鐘を鳴らさず、警戒を厳重にして、以て式の了るを俟つ。之を如来の御年越と云ふは俗伝にして、実は、水内の神の祈年祭を継承し来れるもの、祈年(としこひ)やがて年越(としこえ)の義に転化せるに外ならず。」としている。 |