穂高神社
ほたかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穂高神社 (名神大) 信濃国 安曇郡鎮座
          (奥宮)穂高神社【奥宮】

   【現社名】穂高神社
   【住所】長野県安曇野市穂高 6079
       北緯36度20分19秒,東経137度53分2秒
   【祭神】穗高見命 綿津見神 瓊瓊杵尊
   【例祭】9月26日 例祭
   【社格】旧国幣小社 信濃国三宮
   【由緒】貞観元年(859)2月11日正五位上
       明治5年11月郷社
       明治15年5月9日県社
       昭和15年国幣小社

   【関係氏族】安曇氏
   【鎮座地】古来よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「穗高宮」と称していた
   【公式HP】 穂高神社
   【社殿】本殿一間社流造
       勅使殿、左右翼廊、神饌所、鎭齋殿、神樂殿、透塀
       社務所、齋館、氏子参集所、手水舎

   【境内社】別宮神明社・摂社若宮社・諏訪社・別菅社穂高霊社
        秋葉社・子安社・事比羅社・保食社・四神社・鹿島社
        八坂社・八幡社・菅原社・疫神社

   【境内図】 境内図

里宮と奥宮があり、古くから信濃の大社として名高く、里宮は日本アルプスの総鎮守として、交通安全の守神として信仰を集めている。
奥宮は上高地、明神池畔に鎮座する。中部山岳国立公園内で明神岳の直下(穂高蓮山の一峰)風光明媚なところである。
安曇族は、北九州に起こり海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め。いつしかこの地に移住した安曇族が海神を祀る穂高神社を創建したと伝えられている


穂高神社

穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき南安曇郡穂高町にあります。そしてその奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られており、嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。穂高見命は海神族の親神であり、その後?であります安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。後醍醐天皇の延長5年(西暦924年)に選定された延喜式の神名帳には名神大社に列せられて古くから信濃における大社として朝廷の尊崇篤く殖産興業の神と崇め、信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられています。
御船祭(御船神事大祭)は、毎年9月27日です。
船型の山車に穂高人形を飾った大小5艘のお船が笛や太鼓の囃子にのり、町内から氏子衆によって神社へと曳き入れられます。勢揃いした御船のきらびやかな様子は、歴史絵巻を見るかの様です。境内を練り、神前を曳き廻るうちには、お船が激しくぶつかりあい、その壮大な迫力に、時のたつのも忘れてしまいます。
御船祭りのお船は、子供船と大人船とがあり、なるの新木を用いて毎年組み立てられます。
男腹、女腹には着物が何十枚も掛けられ船上には毎年こと穂高人形が飾られます。着物の持ち主は、一年間健康で過ごせると言う信仰も息づいています。
お船の起源は穂高神社の祭神が安曇族の祖神である海神をお祀りし古代北九州に本拠があった安曇族は海洋に親しみ海運を司っていたこと、大将軍安曇比羅夫の船師を率いての百済教援、又氏族の朝廷での活躍などで、平安時代の標山室町時代の神座の山車等に原形を見ることができます。
上高地明神池のお船神事(10月8日)
本宮
・中殿:穂高見神(ほたかみのかみ)
・左殿:錦津見神(わたつみのかみ)
・右殿:瓊瓊杵神(ににぎのかみ)
・別宮:天照大御神
・若宮:安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)
・相殿:信濃中将 (御伽草子のものぐさ太郎)
奥宮
・ 穂高見神(ほたかみのかみ)
歳時記
●元旦(1月1日) 歳旦祭、聖寿万歳、氏子・崇敬者安全祈願
●1月1日〜8日 天下泰平、交通安全祈願大祭
(以後毎日祈祷)
●1月15日 厄除・八方除特別祈祷祭
●2月3日 節分祭
●3月17日 祈年祭、奉射祭(特別神事)
(農・工・商、産業振興祈願)
●4月20日 戦没者慰霊祭(平和祈願祭)
●6月30日 大祓式(悪事災難除け祈願)
●8月2日 祖霊祭
(先祖の偉業をたたえ、子孫繁栄祈願)
●9月27日 本宮例大祭
(御船神事、県選択無形文化財)
●10月8日 奥宮例大祭
(御船神事、日本アルプス遭難者慰霊祭)
●11月19日 新甞祭、列格記念祭
(農・工・商、産業発展感謝)
●12月31日 大祓式、除夜祭
(無事息災を感謝して新年を迎える)
●式年祭(御遷宮) 次年は平成14年(小)、さらに21年(大)に斎行。交互に7年後、6年後に各年次5月寅日寅刻に行う
穂高町神社奥宮
明神池の入口に鎮まる穂高神社奥宮。御祭神は穂高見命で、日本アルプスの総鎮守、海陸交通守護の神です、嶺宮は北アルプスの主峰、奥穂高岳の頂上に祀られています。
●峰宮
北アルプスの主峰奥穂高岳頂上(3190m)に鎮座
●明神池・御船神事
御船神事は毎年十月八日に穂高神社奥宮で行われる山の安全を神に感謝するお祭りです。雅楽の調べの中、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の2艘のお船を池に浮かべ繰り広げらる光景は、まるで平安絵巻のようです。
●上高地・明神池
穂高神社奥宮の奥にあるのが荘厳なムード漂う明神池。ここは穂高神社の神域です。この針葉樹林に囲まれた神秘的な池はひょうたんの形をしていて、手前を一之池、奥を二之池と呼び、かつてはその奥に三之池がありました。池にはイチョウバイガモという珍しい水草が見られ、岩魚やマガモの姿も見られます。伏流水や湧水を集めた明神池は、氷結しないことで知られ、四季折々の風景が水面に映し出されます。
中沢義直作品集「聖なる明神池」より

公式HP



穂高神社

瓊々杵尊
天照大御神
一、 主祭典
奉 射 祭
例 祭 宵祭
(御船祭)本祭
式年遷宮祭 3月17日
9月26日
9月27日
一、 本殿建築様式
穂高造(一間社流造の変形で、勝男木・脇障子に特徴を見る)
一、 社 格
延喜式(927年選進)神名帳所載の式内名神大社
旧国幣小社、現神社本庁別表神社
一、 御神徳
海の幸と山の幸を兼備した御神徳は広大無辺、特に殖産興業、海陸交通安全の守護神として名高い。
○ 奥宮
嶺宮 上高地明神池畔に鎮座
奥穂高岳頂上に鎮座

社頭掲示板



阿曇比羅夫之像

解説
 大将軍大錦中阿曇連比羅夫は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。
9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。
伝統芸術である穂高人形飾物は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。

社頭石碑



穂高神社

穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。 そしてその奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られており、嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。 穂高見命は海神族 (かいしんぞく)の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)であります安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。 醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式の神名帳には名神大社に列せられて古くから信濃における大社として朝廷の尊崇篤く殖産興業の神と崇め、信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられています。

長野県神社庁



穗高神社 名神大

穂高は保多加と訓べし○祭神穂高見命○穂高村に在す○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、信濃國穂高神社一座、
連胤按るに、穂高見命は安曇宿禰之租也、(姓氏録の文郡の下に見ゆ)今猶安曇氏の輩奉仕す、
雑事
朝野群載云、康和5年6月10日、奏亀卜、御体御卜、坐信濃國穗高神云云、社司等、依過穢神事崇給、遣使科中緩可令稜清奉仕事、宮主從五下行少裕卜部宿禰兼良、中臣從五位上行権少副大仲臣朝臣輔清

神社覈録



縣社 穗高神社

祭神
奥社 穗高見命
里社 穂高見命 綿津見命 瓊々杵尊
創立年代詳ならず、口碑に云ふ、上古は穂高嶽に鎮座せしを、大化年間里社を造立して遷座すと、即ち延喜式内名神大社に列せらる、神祇志料に「今穂高村にあり、(神名帳考、信濃地名考、行賽鈔、信濃国図)悉海神穂高見命を祀る、(難酌古事記、新撰姓氏録、延喜式)清和天皇貞観元年2月丁酉従五位下宝高神に從五泣上を授け云々、堀河天皇康和5年6月、穂高神社司に中祓を科す、神事を穢す御崇御トに出るを以て也、(朝野群載)凡其祭正月17日、奉射神事あり、7月27日、氏子の村々船形を作り、人をして曳しむるを例とす(筑摩県神社誌)とあり。
信濃地名考に曰く「安曇郡穂高神社は保高のむらにいます(神名式名神大)当郡西の方飛騨國に坂合、仰げば保高嶽雲に聳えて連山左右に兜立す、神号も爰に拠る歟、古事記、旧綿津見神者阿曇連等之祖神云々」、姓氏録、同安曇宿根海神綿積豊玉彦神子穂高見命後云々、又海神ノ後海犬養の姓も見えたり、加茂翁曰あつみは海てふことそ綿積たつの約つ也、わあ通じて阿曇なり、あつを約ればうとなれり、今大町の奥に海猶残れり」巾路」この地草創の水を治めたる氏神の勲功仰ぐべき也、」信府統記に、穂高大明神は火瓊々杵尊を祀れるものなり、往古当國神含地穂高岳に垂跡ありて、其後此処に鎮歴せし故、在号をも穂高と称するものにゃ云々」と、神紙志料にも「按本郡仁科村の北に海あり、青木海中綱海海口などと云ふ、青木海廣三十余町と云り、本国に此神を祭るは蓋此故也、妬附て考に備ふ」など見ゆれば、穂高の神たる。蓋し水徳の神たるや知るべ、きなり、されど信濃奇勝録に、信府統記を引きて、穂高の岳は雲にそびえて連山左右に児立す、穂高村にいます、又信府統記に光仁天皇の御宇、中房山の悪賊此邊を暴乱し、神社仏閣を破却す、桓武帝の御字坂上田村丸これを退治す、文徳帝の御字信濃の中将と聞えし人、常社を造営の事有、按に此中將は其頃当國の國司にや、仁明天皇の孫とかや、又俗に物草太郎と称するは此人なりといへり、物草太郎物語に昔二位の中將にて在せし入の信濃に左遷し玉ひしが、子なき事を憂へて善光寺の如来に祈り、一子をまうしうけて、三とせといふ年に二親みまかりければ、世にはふれて筑摩郡あたらしの郷といふ所の里人に養れて成長、其名を物草太郎と號く、かくて其里のながぷといふにやとばれて都にのぼり、ながぷの期果てかへるさに、清水の邊に徘徊、侍從の局といへる女房に懸想して、其夜七條のすゑ、から橘の紫の門のやかたへ忽び入りし事など作り、又信濃の中将となりて筑摩の郷にやかたし、百二十年の齢をたもちて榮え、後に殿はおだかの明神、(ほたかの誤か)、女房は朝日の権現とあらほれ玉ふと云々、今当社頭の末社若宮朔神の祠は此中将を祭ると祠司の説也、本社の後背に塚あり。これを物草太郎が塚といひ伝ふ。
「松本の西南一里余へだちて新村と云ふ地あり、上新村、、下新村其外東南北の五つに又属邑有り、此地むかし物草太郎が住居の所といひ伝ふ、あたらしの郷名転じて新村と唱ふるにや、又もとより新の郷なりしを他にて推量に新の郷と称すにや。」 大日本地名辞書に、「穂高神社、俗説に仁明帝の王子物草太邸本社を建て、太郎の墳墓神域に存するもの是なりと云ひ、又穂高神は皇極天皇の王子にて、白雉4年伊勢國より下向、又此神は初め穂高嶽に天降りたまふ、即火々瓊々杵尊なり等種々に談ず云々」など云へれば、又其論の多き知るべき也、降つて神裔安曇比羅夫当地穂高村に宮殿を建立'するに当り、祖宗徳高見命を穂高嶽より此処に奉遷し、庁含を建て、代々祭政を統治す
大宝3年8月勅使奉幣の儀あり、神護景雲2年2月安曇氏禁中に召され、内膳司に奉仕せしかば、箭原庄司高明親王に代りて祭政を統一す、爾来交も領主の祀る所となる、文明年間仁科少輔盛知領主たる時、二十一年毎に本殿を造営し、七年毎に本殿以下を修繕し、其費額は郡内五十余郷に賦課して之を出さしむ、(其書類数通今宝庫に存す)尋いで慶長年間小笠原秀政、黒印地十石及び籾二十五俵、並に祭免として年々六俵づつを附す、爾来領主代々寄付の社領ありしが、維新の際上地す、然れども、祭儀典祀の如きは、総て先躍に從ひ旧例を存じ、今尚2月27日の春季祭には、奉射の神事とて射的の儀あり、又9月27日の秋季には、氏子中にて家格あるもの裃を着し、両刀を帯し、竹の杖を持ちて警護固す、此等皆古例に拠るものなりと云ふ、本社穂高嶽の社殿を奥社と称し、本殿の西南にあり、今旧穂高村、旧等々力村、旧穂高町村、旧等々力町村等の産土神だり、明治5年11月郷社に列し、同15年縣社に昇格す、
社殿は奥社本殿、里社本殿三宇、鎮齋殿、勅使殿、神樂殿、宝蔵、社務所等を具備し、境内坪数16062坪(官有地第一種)あり、37年中上地林3900余坪を編入許可せらる

明治神社誌料



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