昔は塩尻峠の古道の傍にあつたもので其の阿禮は『イワレ』などの『アレ』で村落などの意味であろう。 |
由緒 創建の年月は不詳なるも延喜式神名帳に登載された古社である。五百渡山に鎮座が阿禮神社の発祥で此れが何時の時代か明かではないが、其後大同2年(807)坂上田村麻呂将軍が明神平(現奥社所在地)に奉遷、更に仁寿2年(852)現在地(大字塩尻町六番地)に前宮を造営して遷座した。此の時合殿に誉田別尊・大己貴命を奉祀した。 祭神 奥社 素盞嗚命 前社 素盞嗚命 合殿 誉田別尊・大己貴命 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
阿礼神社 式内 阿礼神社縁起 当神社は平安時代醍醐天皇の延長5年(917)に撰進された延喜式神名帳登載の由緒ある古社で祭神は次の三神である。 奥宮・前宮 素盞鳴命 天神 阿礼ノ神 相殿 大己貴命 国神 大宮ノ神 相殿 誉田別命 八幡ノ神 往古、東山塩尻峠西麓を流れる四沢川流域に諏訪族神氏を祖とする氏族が集落生活をしていた。彼等は四沢川上流の五百砥山に山□神水分神を祀り大神信仰の下に神の霊力を有つ山そのものを御神体として阿礼ノ神を祀った。阿礼ノ神は御生れ神御邑神の意で一族の守護神である。やがて彼等は放牧農耕の生活にも慣れ古代国家が整った頃には他の集族も容れ農耕文化を取入れた地域集団になっていた。そして五百砥から遙か麓の農耕可能の地域に集落を移動すると共に、諏訪明神に縁のある素盞鳴命を主祭神とし其の子孫に当たる大己貴すなわち大国主命を相殿神とし社殿を造営して奉斎した。之は文徳天皇仁寿2年(852)に行われたこれより此の地域を明神平と謂った。阿礼神社は永く此所に鎮座された。 平城天皇延暦年間征夷大将軍坂上田村麿が蝦夷征討の途次この社に戦勝を祈願した。高倉天皇治承4年(1180)木曾義仲が親しく此の神社に参拝塩尻諸豪族や諏訪一族らに対し挙兵参加を要請したので諸豪族等奮って応じた。 建久2年(1191)塩尻郷は東條・西條に区画され地頭西條氏は諏訪明神を、地頭塩尻氏は八幡宮を勧請して氏神とした。八幡宮は現在の阿礼社域に祀られた。塩尻郷は治承3年以後300年間も小笠原氏の所領であったが、天文19年(1550)武田信玄勢に攻略され小笠原氏居城の深志城も翌年占領された。 しかし32年経た天正10年(1582)に智将小笠原貞慶は塩尻八幡宮に旗挙げしたので塩尻衆悉く之に従軍奮戦して居城深志城を奪還した。これより前天正7年阿礼神社は兵火にて炎焼、後に塩尻八幡宮も炎上した。慶長19年(1614)小笠原貞慶の子秀政八幡宮再建、翌元和元年(将軍徳川秀忠時代)官命にて塩尻町が古町より新町移転、元和2年塩尻峠中仙道開通などに依り宿駅として発展するに及び氏子は八幡社域に阿礼遙拝所を設け庶民参拝の便を計ると共に祭典には阿礼・大宮二神の八幡神への御神旅を仰いだ。 将軍綱吉時代貞享4年(1687)に新殿造営祭神に誉田別応神天皇を八幡神として併せ奉斎した。この時の本殿は将軍家継時代正徳4年に焼失した。 現在の社殿は将軍吉宗時代の寛保3年(1743)に再建したものである。明治5年郷社に列せられた。古の素朴な集落守護神であった阿礼神社は後世戦国武家の時代地方豪族に武運祈願の神として厚く崇敬され武将たちは戦勝報賽のため社領を寄進し社殿を造営した。そして明神平鎮座以来阿礼神社の詞官であった塩川氏の神社管掌を保護したのである。近世に於いては筑南総鎮守とし、また郷党の産土神として一般の崇敬を聚めている。 昭和52年3月6日 建之 宮司 塩川秀文 代 勲四等 小口虎雄 撰書 社頭掲示板 |
祭祀遺跡 五百砥山御旧蹟地、現在は五百渡山と書く。所在地、阿禮神社前社より東方凡三〇町、同奥社より東方凡二〇町、鉢伏山支脈塩尻峠の北方にあり、塩尻町の中央を流れる田澤川の水源地の丘陵なり。御湯立ヶ原所在地、奥社明神平と御旧蹟地五百砥山との中間の高原を御湯ヶ原と云ふ。由緒、五百砥登山に困難なりし爲め、此の高原にて遙拝式を行へる遣跡なり。現在此の高原の一端に碑を立てて保存し、毎年五月一日、五百砥山祭の時碑前にて修祓の式を行ふを例とする。 式内社調査報告 |
阿礼神社 式内社往古は塩尻市東山の五百渡山頂に鎮座、後市内柿沢地籍(塩尻町1313)現在地動座。この杉は参道入口右側に在り、氏子は“阿礼の大杉”として、氏神様の目示し、又塩尻市立塩尻東小学校、昭和25年分校は市立塩尻西小学校の校歌(浅井冽作詩)に“阿礼の御社〜、千年の杉の神高し…”とあり、児童生徒達よりも千年の大杉として認識されている。平成10年に樹木医の推定で500〜600年位と云う大杉前は中仙道で、道路の補装及び水路の改修等により水分の補給が充分でないとの判断で現在大杉の保存について研究中。 長野県神社庁 |