大山田神社【旧地】
おおやまだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大山田神社 信濃国 伊那郡鎮座
          (現在社)大山田神社

   【現社名】大山田神社【旧地】
   【住所】長野県下伊那郡阿南町深見
       北緯35度19分9秒,東経137度49分35秒
   【祭神】
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】
       

   【境内社】

この地に山田池明神があり、大山田神社の旧地とされている。
写真は長野県下伊那郡阿南町教育委員会発行「国道151号線改良工事に伴なう埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書早稲田遺跡その2」(1983年2月)に掲載されているものである。


大山田神社旧鎮座地

大山田神社旧鎮座地山田について
早稲田の隣り部落に、天然湖としては伊那地方最大の「深見の池」(周囲716π )で知られる深見部落があり、深見の内=山田地籍に大山田神社旧鎮座地と推定されるところがある。大山田神社は阿智神社と並んで、伊那地方の式内社三座のうちの一つであるが現在の鎮座地は下条村陽皐字宮の腰にある。室町時代下条氏によって造営された重要文化財指定の社殿をはじめ、鎮西の森といわれる杉や桧の大本が欝蒼としげり、盛観をなしている。しかしながら、この大山田神社は、種々の記録からみて、最初からこの地にあったものでないことが明らかとなっているも慶安2年(1649年)に家光から鎮西八幡宮領として、10石の朱印地を給わっているが、このときの本宮は八幡神、摂社は諏訪明神であり、大山田神はまだ祭られていなかった。神主家鎮西氏によって神祗管領吉田家に願い出されて、大山田神社として承認されたのは元文6年(1741年)のことである。鎌倉以後、久しく人々の記憶から遠ざかっていた大山田神社は吉田家の承認を得ることによって、鎮西野に復活したのであった。
では大山田神社の最初の鎮座はどこだったのかということになるが、諸説ある中で、最も有力なのが、この深見山田説である。山田は深見本部落からは離れており、千木沢渓谷をはさんで相対した位置にあるが、もともとは山田の方が本村であったとも言われる。うしろ南側に山を負い、前面は北に傾斜してはいるが肥沃な水田の多いところである。あたりには山田という屋号の、かつて神主家にあたる旧家が一軒だけみえる。
ここには最近まで古池大明神社があったが、現在、祭神は深見諏訪社に合祖され、物置となった拝殿に絵馬が残り、周囲の景観が往時をしのばせるだけである。山田古池大明神社がいつごろからあったかは不明であるが、慶長年間に存在していたことは旧記によって知ることができ、室町時代と推定される獅子頭も残っている。神社所在地が山田であり、祭神が大国主命であることから、ここを大山田神社の古地にあてようとするのである。古老の話では、山田池明神にあった大山田神社の古記録類は、故あって鎮西の神主家に譲られ、その後、大山田神社が式内社として鎮西に移し祭られたものだと伝えている。
明治初年につぎのような大山田神社の本家争いがあったことが知られている。明治2年、太政官により、延喜式神名帳記載の諸国大小の神社は勿論のこと、廃絶したものについても詳細にとり調べ神祗官に届けるように通達があった。深見村神主・松沢左近は、自分の奉仕する山田古池大明神は、もと湖水(深見の池)より三町上の森の中に、大山田神社と号し、建御名方命を杷る諏訪神社と相並んで崇敬していたが、何時の頃よりか今のところヽ遷し祭った。それより地名を山田と呼ぶことになったも従って式内社大山田神は現在の古池大明神より外にない筈、と竹佐役所へ出願した。当然、元文年間に吉田家の承認を得ている鎮西大山田神社と懸り合いになり、双方共にこれを証拠だてる資料に欠き、いずれとも決定することができなかった。ところが、改めて神祗官に訴え出ることになると莫大な費用を要するので、仲に人が入り、鎮西側より深見の左近に酒料として、金拾五両を差し出し、左近が願い下げをすることで妥結したといういきさつがある。
結局、式内社大山田神社は鎮西鎮座で落ちついたのである。

長野県下伊那郡阿南町教育委員会発行「国道151号線改良工事に伴なう埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書早稲田遺跡その2」(1983年2月)




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