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本来、出雲系諏訪族の祖神として、また生産の神として崇敬されていたと思われる。 中世には殆どその存在は不明となった。 文明年間以後、甲斐武田氏の支族下條氏がこの地を支配し現在の大山田神社鎭座の地に源氏の守護神である八幡大神を勧請し「鎭西八幡宮」として奉祀した。 元文年間、時の鎭西八幡宮神主鎭西清行は、式内社大山田神社の復興を期し、鎭西八幡に程近い菅野の「根ノ神神社」に祀られていた大國国命を鎭西八幡に移し、これを大山田神社と定めて祀った。 |
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大山田神社 重要文化財2登録 室町時代建造物 八幡社・為朝社 はちまんしゃ・ためともしゃ 神社の創建 :929年以前(平安時代) 八幡社の構造:桁行1間 梁間2間 流造 柿葺屋根 為朝社の構造:桁行1間 梁間2間 流造 柿葺屋根 建 造 年 :永正3年(1506) 祭 神 :建御名方命たけみなかたのみこと 下条村の国道から少し山へ入った静かな集落の高い所に、周辺の地域を鎮護するかのようにひっそりと神社があります。ここは、かつて遠州街道が通っていた所をみおろす形になり、現在はうっそうとした杉に囲まれて周辺の景色は見えません。鳥居をくぐって進むと、八幡社・本殿・為朝社を風雨から守る覆屋と、そこから飛び出すように造られた拝殿が見えます。その他には公民館のような神社の集会に使われる建物なのか1建だけが境内の端にあります。 覆屋の中は暗く、隙間から八幡社と為朝社の正面しか見えません。向かって右が八幡社で、左が為朝社で、中央が本殿になります。2つの社には彫刻がなく、意外とあっさりとした構造で、かなり古くから覆屋に守られたのかほとんど傷んでいません。 大山田神社は、下伊那における式内社2座のうちの1つになります。下条氏の居城吉岡城から600mの所にあり、近くに龍嶽寺があります。八幡社は為朝社とほとんど同じで、目だった違いは蟇股の彫刻で、八幡社は花橘に2羽の鳩で、為朝社は鳩1羽になっています。近くの阿南町 古城八幡神社の八幡社、諏訪社と瓜二つで、4つの社を並べたらほとんどの人には違いが分からないでしょう。 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/yamada.html |
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大山田神社 重要文化財指定 御祭神 大己貴命(大国主命) 相殿 応神天皇 相殿 鎮西八郎為朝 社地 下條村陽皐 4588番地 社殿 拝殿奥の覆屋に三社殿が祀られている 八幡宮社殿 (室町時代)重要文化財指定 間口2.57m 一間社流造、向拝付、二重繁垂木、栃板葺、縁勾欄、脇障子付、蟇股、 格調高い社殿である 大山田神社社殿(江戸時代中期)一間社流造 八郎明神社殿(室町時代)重要文化財指定 八幡宮社殿と同手法であるが稍簡素である。 この二社殿は室町時代中期、永正4年(1507)に再建された。蟇股、木鼻、斗拱、等当時の技法を伝え中央文化による数少ない貴重な社殿である。明治45年内務省より特別保護建造物に指定、昭和30年文化庁より重要文化財指定を受け、昭和47年文化庁による解体修理を行った。 神社の沿革、歴史 古代この辺一帯は「菅野荒野」と呼ばれ、万葉集に歌われ、菅野朝臣真道縁の地とされている。神社の創立年代は詳かではないが、平安時代醍醐天皇による延喜式神名帳に載る信濃国48座伊那郡2座の一座で、千年以上の歴史を持つ神社である。 室町時代にいたり、領主市下条氏はここに正八幡宮と諏訪明神宮を祀り一族の氏神とした。 これにより近郷の総鎮守として人々の崇敬厚く、特に下条氏七代目伊豆守家氏は京都より宮大工吉村氏一族を招き社殿の造営を為さしめ、現在当神社の他、古城八幡宮に二社殿が残り、何れも重要文化財指定を受けている。これは下条氏の文化水準、および力を示すものであり、・・・・・の重文を持つ式内社として貴重な存在となった。 江戸時代は人々の産土・・・・・八幡宮へ幕府より朱印地十石を与えられていた。寛永年間風倒木・・・・殿が損傷を受けるなど荒廃の時期もあったが貞享、延享、宝暦年代・・・・修復され、下条氏以来潜めていた式内社大山田神社の社名復活を行い・・・を富に集め、明治7年郷社に列した。 社叢、境内は数百年の老杉を初め杉桧の大木が茂り、この元に繁茂する植物は約260種類で、然も南限北限の植物が混生する貴重な場所とされ、特に「青木」の群生は珍しい。 祭礼 春 4月5日 秋 10月10日 伝統の獅子舞が行われる 社頭掲示板 |
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大山田神社 創建は不詳であるが、応神天皇、鎮西八郎為頼の社殿は永正年間に建立され、国の重要文化財である。 また、大国主命の殿内にある2対の神像は延喜の頃の作とされる。 特色としって秋祭には境内を獅子舞と共に廻る特殊神事が行なわれる。 重要文化財に指定されている相殿2社殿は室町時代永正4年(1507)下条氏が京都から招いた工匠によって造られる中央文化による和様禅宗様の技術を用い全体に造りが繊細で蟇股、鼻木妻飾りは当時の様式を伝え県下でも数少ない社殿である。 社叢は長野県自然100選の一つである南限、北限の植物が約280種類も繁茂している植物学上貴重な場所である。 長野県神社庁 |
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御祭礼之図 大山田神社、八幡宮、八郎明神御祭礼之図 村有形文化財 平成13年8月21日指定 所在地 下条村陽皐4588 所有者 大山田神社 管理者 大山田神社氏子総代 画画上部に神社の拝澱と覆屋、前面に四人の禰宜を先頭に槍、弓持ち、神主、御輿、笛太鼓、鍾を鳴らす人々、赤色と白色の装束、ヘエホイお獅子に供揃いの行列、その左側では、舞台の前に大勢の人々が「芝居」を見物している。右側では幕を張り、人々が的に向けて弓を射ている。 図の行列は、大山田神社の神事芸能として伝わる「ギョウド」を描いている。ギョウドは7世紀ころ中国から日本に伝えられた「技楽」の「行道」を表す古い言葉で、その芸能の形態を伝える資料。歌舞伎は江戸時代この地方で、既に常設の舞台を設け、娯楽芸能が盛んに行われた資料。弓を射ているのは宇佐、石清水、謙倉など八幡宮の伝統行事「奉射祭」(ぶしゃまつり、流鏑馬)を八幡宮に泰納している場面。こうした神事芸能と娯楽芸能を同時に描いたものは希少、特に村の芸能文化の資料として貴重。 年代 江戸時代天保年代(伝承)作者絵師 斎木 社頭掲示板 |
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犬山田神社 犬山田は於保夜麻太と訓べし○祭神 ○鎭西野村に在す 神社覈録 |
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郷社 大山田神社 祭神 大國主命 相殿 応神天皇 鎭西八耶爲朝 創立の年代を詳にせず、廷喜式伊奈郡大山田神社とある是なり、神名帳考証魂大山田神社、大山祇、」神社覈録、「大山田神社、大山田は於保夜麻太と訓べし、〇祭神○鎮西野に在す、神祇志料、「大山田神社、今鎮西野に在り、」大国本史「大山田神社、(今在鎮西野村宮腰)」信濃奇勝録。「大山田神社鎮西の村にあり、(主田十石祭る所大国魂命)此地往古よしか平と云、中古為朝の二男大島二郎為家伊豆を遁れ、参河國足助に至り、左兵衛尉重長為家姉婿が詐に忍居、後此地に来り社司に身をよせ女を妻とし、父為朝大島に配流によりて大島を氏とし、又為朝の霊を八郎明神と並祭、故にいつとなく鎮西の村と呼とかや、此境内に異石あり、平石の面に大根の状あり、葉は膏く、根は白く、悉く書き彩か如し、其地の西の谷川より土人見出し、近き頃社地に引たり、葡羅石、石色淡青白総三尺許横一尺五寸余両葉中は少し赤みあり、根は白し(図あれど略す)など見えたり、又名勝地誌云、「下條村大字陽皐の遠州往還に在り、郷社にして鎮西八郎為朝の霊を合祀し、社地を鎮西野と称す、本祭神並に創建の年月共に詳かならず、里人は単に為朝の社と呼び痘瘡に罹れる者之を祈れば立どころに平癒すと言伝へ賽人少からず、蓋し為朝曾て疱瘡の神を棲ひしとの俗説を信するが故なるべし云々、」伝へ云ふ、相殿八幡宮は治承元年鎮西八郎為朝の二男大島二郎源為家、平氏の乱を避け逃れて此地に来り伝ふる所の神体を奉祀せしもの、是れ八幡大神は武門の守護神にして源家の氏神たるを以てなり。又八郎明神は二郎為家遂に此地に住居せしを以て、其父為朝の霊を祭りしものなり、これより此地を伊賀庄鎮西野と称せりと、応永天正の間下條氏此地を領するや、代々社領永二十貫文の地を寄附し、又徳川氏に至りても慶長6年以来朱印地十石等の寄附あり、永正4年11月下條伊豆守源家氏本殿を再建し、後廷享2年8月神主鎮西豊前守源清行再建す、八幡宮は亦本殿と等しく永正4年再建の後貞享3年3月神主鎮西筑前守源清房修営を加へ、八郎明神社殿は宝暦8年8月神主鎮西豊前守源清行再建す、毎年8月15日を以て例祭を執行す、明治5年11月郷社に列す、社域は幾個の石階を登り二町許の山上に在り、古杉老松全山を置み、深邃にして幽雅殆ど仙境に入るの思ひあらしむ、真に尊き神域たり、 社殿は本殿、拝殿、庁屋、鳥居等を具備し、境内地1887坪(官有地第一種)あり、 明治神社誌料 |