蛟蝄神社
こうもうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】蛟蝄神社 下総国 相馬郡鎮座
          (奥宮)蛟蝄神社奥宮

   【現社名】蛟蝄神社
   【住所】茨城県北相馬郡利根町立木882
       北緯35度52分12秒,東経140度10分27秒
   【祭神】彌都波能売命 波迩夜須毘売命
       (合祀)倉稻魂命 須佐男之命 菅原道真 誉田別命

   【例祭】9月14日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】孝霊天皇3年に水神を祀る
       文武天皇2年(698)土神を祀る
       慶長3年(1598)造営
       元禄11年(1698)造営
       明治4年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】「みつち」=水神を祀つた
   【祭祀】江戸時代は「文間大明神」と称していた
   【公式HP】 蛟罔神社
   【参考HP】 蛟もう神社
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】
   【別当】宮台山神宮寺といい、天台宗に属し、当社の西にあった

「蛟」は「みつち」のこと、龍の属である。また「蝄」は山川の精である。
当社の場合には、「蛟」にウェイトがあり、すなわち「みつち」=水神を祀つた社名であろう。
「みつちのかみのやしろ」と呼ばれていたと思われる。
もともと当地がが蛟蝄神社であつたが、あまりに里に近いため、また水害を避けるため、いつの時期かに、東方台地を拓いて遷祀したが、そののちも旧社をそのまま残して、本社(奥ノ宮)と角ノ宮との両社を一体として祭つたものであろう。


蛟蝄神社

蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。平安時代 (698年)に土の神様の埴山姫大神を合祀(ごうし)し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが社殿を東の高台 (現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂(みたま)を分祀し門の宮にお祀り致しました。明治42年(1909年)に立木地区にあった「八坂神社(やさかじんじゃ)」「天神社(てんじんじゃ)」「稲荷神社(いなりじんじゃ)」「八幡神社(はちまんじんじゃ)」を合祀して現在もなお一層の御神徳(ごしんとく)をもって下総國相馬の郷を見守っておられます。
社名について
「みつち=こうもう」の名に由来は諸説ありますが、はるか昔この辺りが海であったころの大地の形が蛟(みつち=伝説上の龍)に似ていたためといわれております。境内の石碑に龍神様の姿をご覧いただけます。
当社の社名は一般的にはこうもう神社と親しまれておりますが、ご祈祷のときの祝詞奏上では蛟蝄神社は「みつちのかむやしろ」と申し上げております。

公式HP



蛟蝄神社

蛟蝄神社の創建は諸説ありますが約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。
平安時代(698年)に土の神様の埴山姫大神を合祀し水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが社殿を東の高台(現在の奥の宮)に御遷座致しました。
門の宮を取り壊すはずでしたが氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂を分祀し門の宮にお祀り致しました。
現在もなお一層の御神徳をもって下総國相馬の郷を見守っておられます。
「延喜式」(全五十巻)の書物の中の第九巻、第十巻の延喜式神名帳にはその当時、特に重要な2861社の神社が記されております。下総國には十一社の式内社があります。
蛟?神社は「下総國相馬郡一座小社蛟蝄神社」と記されております。

由緒書



史跡案内 蛟蝄神社周辺

蛟蝄神社は孝霊天皇3年(前288)に水神の弥都波能売命、文武天皇2年(698)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜5年(905)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟?神社」と書かれています。蛟?の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前2500~前300)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長3年(1598)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄11年(1698)再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄16年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。蛟もう神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。
昭和55年3月 利根町教育委員会
文化財保護審議委員会

社頭掲示板



立木貝塚

利根町指定史跡
立木貝塚
この周辺は、「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻が多く捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残つています。
この遺跡は、古くから知られておりましだが、正式に学会で紹介されたのは明治28年のことです、そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和37年の明治大学考古学研究室です、この調査では、縄文時代晩期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が蛤まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。
そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝範、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした、殊に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。
土偶は、祭礼や儀式に使われたという説がありますが、今でも、この遭跡の上に蛟蝄神社が建っているのは歴史の溌れを感じさせます。
利根町教育委員会

社頭掲示板



蛟蝄神社

蛟蝄は美豆知と訓べし〇祭神埴山姫命、罔象女命、(地名記)〇布川庄立木村に在ず、(同上)今文間両社大明神と称す、例祭月日、○惣國風土記百一残欠云、蛟蝄神社、圭田三十九束三畝田、所祭罔象女也、天平2年庚午6月、始奉圭田、神事式祭等始也、

神社覈録



郷社 蛟蝄神社

祭神 水波能女神 埴山比売命 利根川国志に云く、式内相馬郡蛟蝄神社は立木村の山上に在り。両社にして西なるを角の宮と為し、額に蛟蝄神社と標す、東を奥の宮と云ひ、専ら文間明神と唱ふと、創建は文武天皇3年にして、延喜の制式内小社に列せられ、古来武門武将の崇敬厚く、慶長3年8月、藤井信一社殿を増修し奉り、同9年3月、徳川家康社領五十石を寄せ奉る、後享保元年8月神位正一位たられ、明治4年7月郷社に列す。
社殿ば本殿、拝殿、幣殿等あり、境内は奥之宮917坪、角之宮175坪、共に官有地第一種たり。

明治神社誌料



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