健田須賀神社
たけだすがじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】健田神社 下総国 結城郡鎮座
          (旧地)健田神社旧地

   【現社名】健田須賀神社
   【住所】茨城県結城市結城 195
       北緯36度18分8秒,東経139度52分29秒
   【祭神】武渟川別命 須佐之男命
   【例祭】11月15日 例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       宝暦14年(1764)小塙乗国寺と習合
       明治3年(1870)須賀神社に合祀
       明治6年郷社
       昭和5年県社

   【関係氏族】竹田臣
   【鎮座地】当初は結城本郷健田村に鎮座
        明治3年(1870)須賀神社に合祀
        明治3年(1870)須賀神社に合祀

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 健田須賀神社
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神樂殿・社務所

   【境内社】甲子稲荷神社・慰霊殿
   【別当】乗国寺:結城市結城3073
   【境内図】 境内図

式内健田神社は、現在結城市浦町鎮座の須賀神社(元県社)に合祀され、健田須賀神社として祭られている。須賀神社は、鎌倉初期、尾張国海部郡の津島神社から勧請。
明治3年(1870)式内健田神社を合祀した。
健田神社は、もと結城郡結城本郷小塙村の乗国寺(曹洞宗)の境内に在つた。
同社が宝暦13年(1763)この寺の境内に移されるまでは、結城本郷健田村にあり、今もその旧趾が存する。
結城の国造竹田臣の祖神武渟川別命を祀ったといわれている。


由緒

当社は結城市大字結城195番地に鎮座しており、タケヌナカワワケノミコトならびにスサノオノミコトを祭神とする。タケヌナカワワケノミコトは第10代崇神天皇の勅命により四道将軍の一人として東国地方を開拓、鎮定の大功をたてられ、開拓殖産興業、交通運輸の途を授け衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ、所謂結城地方の文化の親神である。この地方に生を享ける者としては夢うつつにも忘れる事のできない一切生業の大恩神にましますのである。スサノオノミコトは疫神、疫病をはらい多くの人々を救い給わり、厄除け、身体健全、病気平癒の守護神として悪事災難を取り除かれ生活活動の限りなき恩恵を蒙り、その御神徳は実に広大無辺である。健田神社の創建は古く、竹田臣一族、結城の国造が祖神タケヌナカワワケノミコトを奉齋したと伝えられ、醍醐天皇の御代に制定された『延喜式』(927年)に下総11社に撰ばれ国司により奉幣があった。従って千年前に東国地方における著名の神社として遠近に知られていたことが明らかで、創建が極めて古い事、朝野の崇敬が厚い事がしられる。古くは結城本郷字健田の地に鎮座し、その後幾星霜を経て、神仏習合により宝暦14年(1764)小塙乗国寺と習合する。徳川幕府より祀田9石の寄進あり。(朱印状現存)。
明治3年神仏分離により浦町須賀神社に合祀する。須賀神社は古くは天王宮と称し、養和元年閏二月(1181)小山七郎朝光が結城に封ぜられ治績大いに上がり民心を得て結城氏を称した。仁治3年6月(1242)尾張国津島神社より神霊を勧請しこの地に創始する。
その後歴代の領主結城氏をはじめ士庶に至まで崇敬を仰ぎ、康永2年(1343)結城直朝が結城七社を定め結城108郷の総社として盛観を極めた。領主移封後も毎年当神社の参拝を恒例とした。徳川幕府より祀田6石寄進。明治元年神仏分離令により社号を須賀神社と改め、同3年健田神社を合祀し、健田須賀神社と称し、明治6年に郷社、昭和5年に県社に列格される。現在も茨城県の特別神社に指定されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




健田須賀神社

健田須賀神社
鎮座地 茨城県結城市結城195番地

御祭神 武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)
    須佐之男命(すさのおのみこと)
御神徳
武淳川別命は第16代崇神天皇の勅命により四道将軍の一人として東国地方を開拓、鎮定の大功をたてられ、開拓殖産興業、交通運輸の途を授け衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ、所謂結城地方の文化の親神である。この地方に生を享ける者としては、夢寐にも忘れることのできない一切生業の大恩神にましますのである。
須佐之男命は疫神、疫病を祓い多くの人々を救い給わり、厄除、身体健全、病気平癒の守護神として、悪事災難をとり除かれ生活々動に限りなき恩恵を蒙り、その御神徳は実に広大無辺である。
御由緒
健田神社の創建は古く、竹田臣一族、結城の国造が祖神武淳川別命を奉斎したと伝えられ、醍醐天皇の御代に制定された『延喜式』(927年)に下総国十一社に撰ばれ国司による奉幣があった。従って千年前に関東地方に於ける著名の神社として遠近に知られていたことが明らかで、創建が極めて古いこと、朝野の崇敬が厚いことが知られる。古くは結城本郷字健田の地に鎮座し、その後幾星霜を経て、神仏習合により宝暦14年(1764)小塙乗国寺と習合する。徳川幕府歴代将軍より祀田九石の寄進あり。(朱印状現存)明治3年神仏分離により浦町須賀神社に合祀する。須賀神社は古くは天王宮と称し、養和元年閏2月(1181)小山七郎朝光が結城に封ぜられ治績大いにあがり民心を得て結城氏を称した。仁治3年6月(1242)尾張国津島神社より神霊を勧請しこの地に創始する。その後歴代の領主結城氏を始め士庶に至るまで崇敬を仰ぎ、康永2年(1343)結城直朝が結城七社を定め結城一○八郷の総社として盛観を極めた。領主移封後も毎年当神社の参拝を恒例とした。
徳川幕府より祀田六石寄進。明治元年神仏分離令により社号を須賀神社と改め、同3年健田神社を合祀し、健田須賀神社と称し、明治6年に郷社、昭和5年に県社に列格される。現在も茨城県の特別神社に指定されている。
主な年中行事
歳旦祭 1月1日
年のはじめ、日のはじめ、時のはじめ元旦の午前零時を期して斎行され、新年をことほぎ、氏子崇敬者の平安、弥栄、それぞれの祈願を厳修し、大晦日の夜を徹し、一年の計は元旦にあり、と新年の抱負を祈る参拝者で社頭は大変な賑わいとなる。
元始祭 1月3日
歳首にあたり皇祖天照大神さまが皇孫をお下しになりわが日本の国のきわまりない発展を教えられたその精神にたちかえるよう神恩を感謝し、皇室の無窮と国運の隆昌を祈って行なわれる。
節分祭追儺式 2月節分
当神社の節分祭は近隣の神社にさきがけて古くから執り行なわれ、年々盛儀になり年男の追儺の儀さらに撒豆が行なわれ氏子崇敬者市民一人一人の厄除招福の願がこめられ各商店会奉納による撒物が夜空に舞い善男善女の参拝の渦となる。
紀元祭 2月11日建国記念日
日本建国を祝い、民族の興隆と発展を祈る。
春祭(殖産興業祭)太々御神楽奉奏 
4月15日五穀の豊穣と産業の振興とを祈る春祭に結城市重要無形文化財に指定されている
太々神楽を奉奏する。猿田彦神、稲荷、山神等や岩戸開きの神楽が舞われる。
夏季大祭(祇園祭) 7月中旬
当神社の二大祭の一つに数えられ須賀神杜鎮座(1242)以来脈々と現在に伝えられ、神輿の氏子区域全町渡御は他に類例なく、又「結城のあばれみこし」として知られ一週間に亘る祭典には近郷近在はもとより関東有数の祭りとして数万人の人出がある。神輿出御の日には子供の無病息災を願う「おけさ幣」が授与される。又神輿渡御に当っては各戸表戸を洗い清めて清々しく神輿を迎える習慣がある。神輿の前には氏子町内の高張提燈、あ、うんの天狗の面をかぶった猿田彦神が先導する。
夏越祭 7月31日
この祭は「輪くぐりしとして知られ延喜式五十巻の中の祝詞式に見える大祓の祝詞、6月晦の大祓の神事と当神社の御祭神であられます須佐之男命の故事から来て居ります。知らず知らずに犯した罪、けがれ、即心身に積った生活との悪環境の一切を精神的、物質的に洗い清め、きれいに清々しくなって過去半年を更新し、残る半年を健康におくろうと言う神事である。無病息災、小児虫封じ、病気平癒の信仰が古くからあり、神前に設けた茅輪をくぐり、疫神に拝礼し、人形で身をさすって祓い人形を納める。午後十時疫神、人形を屋台にのせ、鳶頭の木遣を先導にお囃子をかなで川まで送り、川に流します。茅輪をくぐり悪霊を祓い人形に罪穢をなすりつけ、川に流して疫病の起り易い夏を無事に越す事、さらに気候自然が集中豪雨や天災から身を守り、米作の吉凶を占い豊作を念ずる結城伝統の夏の民俗行事となっている。
例大祭
当社創建の古より11月15日に執り行なわれ当神杜祭典中最も重要な祭典である。
一般には「健田まち」として知られ結城郷一帯はもとより北は栃木県河内郡に、南は猿島郡に及び「健田まち」と称し、各家ではごちそうを来訪者に饗応する習慣がある。
当日は七五三まいりでもあり社頭は終日参拝者が絶えず、結城総社にふさわしい祭儀であります。
年中行事
元旦祭(1月1日)
元始祭(1月3日)
節分祭(2月節分〕
紀元祭(2月11日)
合格祈願祭(1月〜3月中毎日)
春祭、太々御神楽
   4月15日
夏季大祭(祇園祭7月中旬)
夏越祭(7月31日)
例大祭 (建田祭 11月15日・16日)
七五三成長祈願祭 (11月中毎日)
大祓除夜祭(12月31日)
月次祭 (毎月1日15日)

由緒書



健田須賀神社

御祭神 武渟川別命
須佐之男命
健田須賀神社は明治3年(1870)に健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
健田神社は、古代より市内健田の地に建てられ我が国の最古公式記録集「延喜式」に勅撰され東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
須賀神社は牛頭天王ともいい、疫病を祓う神、須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により仁治3年(1242)に創建されたと伝えられ、結城家第一の氏神として歴代の城主の崇敬篤く、七代直朝公が結城七社を定め、結城一〇八郷の総社として社地の寄進がありました。また当神社に伝わる古文書によると牛頭天王宮を中心とした中世都市結城の街を知る事ができます。結城家福井移封後も家臣を遣わし崇敬されました。
その後も連綿と市中氏子により結城の氏神、産土神として信仰され今日まで「心のふるさと」として祭祀され、夏季大祭は結城夏祭りとして、市中挙げての祭礼に大御輿が渡御され、氏子の健康、発展が祈願されます。厄除け、方位除け、健康を祈願する氏戸崇敬者は全国から訪れます。
御神徳
家内安全 厄除 方位除 身体健全 交通安全 病気平癒 合格必勝
宝物
結城家と当神社に係わる中世古文書(県指定文化財)
獅子頭、木彫狛犬(市指定文化財)徳川歴代将軍朱印状

社頭掲示板



十二社縁起

牛頭天王(浦町須賀神社)住吉大明神(西の宮) 大桑大明神(小森村)高椅大明神(高橋村) 八幡宮(上簗村)大神宮(中河原村)鷲宮大明神(萱橋村)
この結城七社は結城家七代直朝が関城々主攻略の為 北極星を中心にして回る北斗七星に願をかけ破軍星を求め 七社に必勝を祈願した。その甲斐あって、関城を攻略し、康永2年(1343)七社制を定め篤く信仰し、社地の寄進、社殿の造営をおこなった。また同時にこの須賀神社に六社を 合祀したともいわれている。
この七社をお参りすると願い事が叶えられると昔より伝えられている。殊に七社から破軍星を求め、この破軍星を常に背負い勝負すると必勝が得られるという秘法である。
他に香取神社(下総国一の宮)松尾神社(酒造の神) 羽黒神社・三峯神社(火伏盗賊除の神)白峯神社(祭神 淳仁天皇・崇徳天皇) 足尾神社(足腰の悪い方健脚にご利益あり)
以上十二社を月ごとに十二か月参詣すると必ず霊験あり

社頭掲示板



健田須賀神社

当神社は明治3年に健田神社と須賀神社が現在の地に合祀になりました。健田神社の創建は大変古く現在の地より2Km程東南にありました。この地は古代より現在に至るまで、霊峰筑波山を拝するのに素晴らしい地にあり、古代人はここで祭りを行い、日の出から暦を察した場所と考えられます。やがて神社の様相を呈し、結城の国造竹田臣の祖神武渟川別命を祀ったといわれています。日本で最古の公式記録集『延喜式』(927)には下総国11社の1つに記されている延喜式内社です。以後、宝暦14年(1764)小塙乗国寺と習合し明治3年神仏分離により須賀神社と合祀されました。
須賀神社は結城家初代朝光公が仁治3年(1242)尾張国津島神社よりご神霊を勧請し結城城の鬼門除け、結城家第一の氏神として手厚く祀られ結城家はもとより広く民衆に信仰され結城の産土神として崇敬されました。特に康永2年(1343)結城家7代直朝公が結城七社を定め結城108郷の総社として盛観を極めました。結城家18代秀康公(徳川家康次男)福井移封後も家臣を遣わし崇敬されました。昭和5年茨城県々社に昇格されました。御祭神は須佐之男命を祀り、夏祭りは市中挙げて行われ、神輿担ぎは勇壮で日本一のあばれ神輿として有名です。

公式HP



健田須賀神社

健田須賀神社は明治3年に健田神社と須賀神社が現在の地に合祀され、健田須賀神社となりました。
健田神社は現在の地より2キロ東南の古代より霊峰筑波山を拝する素晴らしい地にありました。そこで祭りを行った事より日の出から暦を察した場所と考えられます(古代祭祀)。やがて神社の形をあらわし、結城の国造竹田臣の祖神武渟川別命を祀りました。日本最古の公式記録集『延喜式』(927)には下総国11社の一つに記されています。以後宝暦14年(1764)小塙乗国寺と習合し、明治3年神仏分離により須賀神社と合祀しました。
須賀神社は結城家初代朝光公が仁治3年(1242)尾張国の津島神社より御神霊を勧請し、結城家第一の氏神として手厚く祀り、結城家はもとより広く民衆に信仰され、結城の産土神として崇敬されました。特に康永2年(1343)7代直朝公が結城7社を定め、結城108郷の総社として盛観を極めました。18代秀康公(徳川家康次男)は福井移封後も家臣を遣わし変わらずに崇敬しました。
合祀以降、明治5年に郷社、昭和5年に県社昇格。

由緒書



健田須賀神社

健田須賀神社は、明治3(1870)年に、健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
健田神社は、古代より市内健田の地に建てられた延喜式内社で『日本書紀』において東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武淳川別命を祀っています、須賀神社は、牛頭天王ともいい、疫病を払う神・須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により創建されたと伝えられ、歴代城主の崇敬篤く、七代直朝公が定めた結城七社では、中心的神社として社地等の寄進がありました、
県指定文化財・
健田須賀神社文書(古文書・室町時代)
平成8年1月25日指定
この文書は、須賀神社に伝えられていたもので、鎌倉時代末から安土桃山時代まで、二巻・一九点あり、なかでも文和元(1325)年の「結城直光田地安堵状」は、旧結城郡内に現存する最古の文書です、また、又書の内容は、城下の商人の経済活動や結城氏の領地支配に関することまで含まれており、中世東国結城の神社や住人の様子を究明するうえで貴重な資料です。
市指定文化財・
狛犬(彫刻・江戸時代) 昭和52年3月4日指定
一対が指定され、阿形が高さ58cm、吽形か高さ54cmで、江戸時代前期に奉納されたものと伝えられています。
獅子頭(彫刻・江戸時代)
一対が指定され、一方は高さ54.5cm、頭上に一本の角を有し、もう一方は高さ50cmで、頭上に宝冠をいただいています。
平成15年11月
結城氏教育委員会

社頭掲示板



健田神社

健田は多氣太と訓べし、和名鈔、(郷名部)香取郡健田、○祭神健御名方命(地名記)○小塙村に在す、(参考)例祭月日、○惣國風土記百二残欠云、香取郡健田庄、云々、健田部神社、圭田三十二束三字田、所祭別雷神也、舒明天皇2年己丑3月、始奉圭田行神礼祭事等、

神社覈録



郷社 健田須賀神社

祭神 (健田)不詳 (須賀》素戔鳴尊
健田神社 祭神詳ならず、或は武淳川別命と云ひ、或は大彦命と云ふ、武淳川別命は竹田臣の祖、大彦命は高橋氏の祖たり、共に其子孫東国に住し、竹、高、健に通ずるを以て説をなすもの、畢竟寛私按たるに過ぎず、創立年代詳ならざれども、延喜の制式内小社に列せられ、古来結城郷健田の地に鎮座ありたる古社たり、然るに後衰頽、遂に宝暦14年曹洞宗乗國寺域内に遷座するに至る、下総旧事考之れを吊して云く、
「本国ノ内ニ、コノ神社バカリ衰ヘタルハナク、社領モ祠官モ絶ウセ、敷地サヘ形ノミ残リテ、乗国寺中に名ノミ存セルハイトアサマシキコトナリ、」
と、宜なる哉、明治維新旧地に復せんと欲せしかども、地既に民有たり、巳むなく須賀神社に合祀し、同6年郷社に列す。
須賀神杜 創立年代詳ならず、傳云ふ、結城七郎朝光、封を結城に受けし時、尾張津島の地より勧請する所なりと、社領六石余を有し、古来著名の神社たり、明治3年健田神社合祀せられ、社号を今の名に改む、
社殿は本殿、拝殿及幣殿等にして、境内は547坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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