二荒山神社
ふたあらやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】二荒山神社(名神大) 下野国 河内郡鎮座
          (下之宮)二荒山神社(下之宮)

   【現社名】二荒山神社
   【住所】栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
       北緯36度33分46秒、東経139度53分9秒
   【祭神】豊城入彦命 (配祀)大物主命 事代主命
       豊城入彦命・彦狭嶋王『下野國誌』の紹介する關岡野洲良の説
       豊城入彦命・大物主命説『下野國誌』
       御諸別王『大日本地名辞書』
       事代主命『延喜式神名候頭註』・『神社覈録』・『大日本國一宮記』
       健御名方神・大己貴命・高志沼河姫命『神祇宝典』
       大己貴命。事代主命・味耜高彦根命『一宮巡詣記』
       大己貴命・事代主命・健御名方命『式社考』・吉野重泰『式外社神名帳』
       大己貴命・健御名方命『神祇志料』
       日光三所神『日光山旧記』
       太郎大明神(馬王)『宇都宮大明神代々奇瑞之事』
       小野猿丸『拾果集』

   【例祭】10月21日 例大祭
   【社格】名神大 一宮 国幣中社
   【由緒】仁徳天皇41年(353)奈良別王荒尾崎に豊城入彦命を祀る
       承和5年(838)現在地に遷座
       永享11年(1439)造営
       長緑2年(1458)造営
       文明10年(1487)造営
       明応7年(1498社殿の造替
       天正13年(1585)北條氏直の宇都宮攻略によつて焼亡
       慶長2年(1597)宇都宮氏没落、社領没収
       慶長10年(1605)徳川家康社殿を改造
       安永2年(1773)火災
       天保3年(1832)火災
       慶応4年(1868)火災全焼
       明治4年5月14日国幣中社
       明治6年2月式外社として県社に降格(日光の抗議があつて)
       明治16年5月改めて国幣中社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは南に街路を隔てた下之宮にあつた
        承和5年(838)現在地に遷座

   【祭祀対象】本来は男躰・女体の二つの山神に対する信仰
   【祭祀】江戸時代は「宇都宮大明神」「宇都宮」「明神様」と称していた
   【社殿】本殿神明造木造平屋銅板葺
       幣殿・拝殿・石ノ間・神樂殿・水舎・神倉・神門・社務所・会館・齋館

   【境内社】女体宮・十社宮・初辰稲荷神社・須賀神社・市神社
       剣宮・菅原神社・荒神社・松尾神社・東照宮・十二社・下宮

   【境内図】 境内図
   【旧別当】神宮寺。宇都宮氏の菩提寺尾羽寺(芳賀郡益子町)と並んで
       「累祖之氏寺」と云はれた


第16代仁徳天皇の御代に良別王下野の国造となり、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られた。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷をはじめ源義家、源頼朝、徳川家康などの武将の尊崇を受けた。
尾崎喜左雄『二荒山神社』では、式内社それも名神大社を奉齋するのは該地方の大豪族であり、また祀られる神も農業神即ち水の神であるのが一般的であるとした上で、これを宇都宮の二荒山神社に当てる。その要旨は、二荒山神社の所在地河内郡は竪穴式の大前方後円墳が散在し、大豪族の占拠を伺せる。それは川内(河内)朝臣を一族にもつ下毛野君であつた。宇都宮は日光山塊から発する雷の通路であり、且つ思川など日光山塊から流出する川の流域の平坦地である。故に下毛野氏が恵の水を齎す日光山塊の中心の山二荒山を遙拝するために設けたのが、宇都宮二荒山神社であつた。また日光二荒山神社は、勝道が山を開くに当つて守護神として出身地附近(勝道は芳賀郡の出身)の名社を勧請したものとする。


由緒

主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




二荒山神社御由緒

延喜式内名神大社 下野国一之宮
二荒山神社御由緒
主祭神 豊城入彦命
合祀 大物主命・事代主命
主祭神豊城入彦命は第10第崇神天皇の第一皇子で第11代垂仁天皇の皇兄にあたられます。
命は御仁愛に富まれ、勇敢な御方であったので勅命を受けて、関東国の御治定の為にはるばる大和国(今の奈良県)から遠くこの毛野国(後世下野国、上野国とに分かれた)に下って来られ国土開発・産業開発に努力せられ遂にこの地に於いて薨去せられました。
そこで命の後子孫が代々両毛(栃木、群馬両県)の御統治にあたられ一族は広くこの地方に繁栄されました。まことに命こそは歴史上明らかに両毛人の祖神大祖先にあたられるわけであります。
さて、当神社は右の様なゆかりで命の四世の孫奈良別王が仁徳天皇の御代荒尾崎(現在の下の宮地)に神社を造営して命の御神霊を鎮祭し合わせて大物主命(産業の神、産業の神、縁結びの神)御子事代主命(幸運の神)を合わせ祀り、後に日本皇紀1498年、西暦838年、第54代仁明天皇の承和5年、現在の御本社に御遷座せられたのであります。
以上の御由緒により歴代の朝廷は延喜式内名神大社として特に尊せられ、民間では下野国一の宮として信仰が篤く今日に続いている次第であります。

社頭掲示板



二荒山神社

神社の起源
二荒山神社は大変歴史が古く、第10代崇神天皇の御代にさかのぼることができる神社です。
当社は何度も火災にあい、近年に入ってからも天正13年、安永2年、天保3年、更に明治維新の戊辰の役と四度もあって古い歴史のほとんどが消失しています。
現在残っている社記には、第16代仁徳天皇の御代(今から約1600年前)に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野國の国造に任ぜられます。この時祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、その後承和5年(838)に現在の地臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。
延長5年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には
下野國河内郡一座大二荒山神社名神大
とあります。栃木県内には由緒ある神社が十一社記されていますが名神大社は当社のみで代々城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」と称し、郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け下野國一之宮といわれておりました。
(元國幣中社)
御祭神と御神徳
当社にお祀りされている神様は三柱の神さまです。
御祭神 豊城入彦命
相殿 大物主命 事代主命
豊城入彦命は第10代崇神天皇の第一皇子で上毛野君・下毛野君の始祖と古事記にあります。また日本書紀の崇神天皇48年の条には命と活目尊の二皇子が召され共に慈愛厚く優れておられ、どちらを皇嗣とするか夢占いがなされ弟活目尊(垂仁天皇)が皇太子となり命は大和朝廷の東國守護に下向されたと記されています。
命の子孫も詔によって下り、東國御治定のよりどころとして祖神豊城入彦命と大物主命(大国さま)事代主命(恵比寿さま)を合わせて祀られました。
祭神は武徳にも優れ古くから武将の信仰が篤く藤原秀郷公(平将門の乱)源頼義・義家公(前九年・後三年の役)源頼朝公(源平の役)徳川家康公(関ヶ原の合戦)など各々当社に戦勝祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。因に江戸時代の当社神領は千五百石に達し鹿島・香取神宮を上回っていました。
火防信仰も古くから起り12月15日・1月15日の冬・春渡祭(オタリヤ)には今でも県内・近県からの信者で夜遅くまで賑わっています。
あづま路や多くの夷平らげて
 背けばうつの宮とこそきけ(権律師謙忠作)
宝物・文化財
三十八間星兜(国指定重要美品)
鉄製狛犬(国指定重要美術品)
正次作太刀(県指定文化財)
新式和歌集(市指定文化財) 
本殿勾欄擬宝珠(市指定文化財)
三十六歌仙額(市指定文化財)

由緒書



宇都宮二荒山神社

下野国一之宮式内名神大社
御祭神、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、第十代崇神天皇の第一皇子で毛野國(栃木県、群馬県)を拓かれた郷土の祖神、総氏神様として篤い信仰を受けております。
また、御祭神は武徳にも優れ古くから武将の信仰も篤く藤原秀郷公、源頼義、義家公、源頼朝公、徳川家康公など各々当社に戦勝祈願し神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。
下野國一之宮、元國幣中社。

栃木県神社庁



下野国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA