大前神社
おおまえじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大前神社 下野国 都賀郡鎮座
          (旧地)大前神社(旧地)

   【現社名】大前神社
   【住所】栃木県栃木市藤岡町大前383
       北緯36度16分34秒、東経139度39分4秒
   【祭神】於襃婀娜武知命 神日本磐余彦火火出見命
       出口延経『神名帳考證』豊城命
       伴信友『神名帳考證』大穴持命
       『下野國誌』大名持命
       『特撰神名蝶』大己貴命

   【例祭】4月3日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代詳ならず
       天慶2年(993)平将門の乱で兵火焼失
       戦国時代祭祀を廃する
       天正19年(1591)徳川家康入府の際再建
       明治5年11月郷社
       明治12年4月現在地に移転

   【関係氏族】
   【鎮座地】明治12年四月に移転
        旧社地の字北前は現在地より北々西に約400m

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神樂殿・神輿殿・社務所

   【境内社】

磯城宮と称したと伝う。
現在の鎭座地は、明治12年4月に移転したもので、旧社地の字北前は現在地より北々西に約400m程離れた地である。旧社地には記念碑があつたが、その碑も土地改良のため移転され、現在では鎭座地の北々西約100m程の畑中にある。


由緒

当神社は創立時代未詳であるが、人皇60代醍醐天皇の勅撰に蒙り延喜5年8月式内社に列せられ延喜式内の称号をたまわり下野十一社の一社として神名帳に登載されている。
社伝によれば天慶3年(993)平将門の乱の際、村中ことごとく兵火に焼かれ当社も焼失したが間もなく再建された。
而して室町時代再度の火災により社運が衰い祭祀も廃すること百年に及んだと云う。
天正19年(1591)徳川家康入府の際再建され、元和8年(1622)当地が古河領となり領主永井直勝は社地五段百歩田四段七畝を寄進し、永井氏佐倉に移封された後も武の神として近隣近郷の崇敬があったという。明治3年栃木県管轄となり近郷の総鎮守とされ、明治5年11月郷社に列せられた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




延喜式内大前神社沿革史

鎮座地 栃木県下都賀郡藤岡町大字大前字磯城宮383番地
大前神社はその先磯城宮と号す
祭神 主祭神 於褒婀娜武知命
配神 神日本磐余彦彦火火出命
社殿 本殿 幣殿 拝殿 神楽殿 社務所
手水舎 鳥居三基 狛犬三対 灯籠
祭日 祈年祭 2月24日 例祭 4月3日
新嘗祭 11月24日 夏祭 7月24日
元旦祭 1月1日
由緒  当神社は創立時代は未詳であるが人皇六十代醍醐天皇勅撰を蒙り延喜5年8月式内社に列せられ延喜式内の稱号をたまわり下野国十一座の一社として神名帳に登載されている。
社伝によれば天慶2年(993)平将門の乱の際村中ことごとく兵火に焼かれ当社も焼失したが間もなく再建された。
而し室町時代再度の火災により社運が衰い祭祀を廃する事数百年であったと言ふ。
天正19年(1591)徳川家康入府の際再建され 元和8年(1622)当地が古河領となり領主永井直勝は社地五反歩田四反七畝を寄進し永井氏佐倉に移封された後も武の神として近郷近在より崇敬されたといふ。
明治3年栃木県管轄となり近郷の総鎮守とされて明治5年11月郷社に列格した。
現在の鎮座地は明治12年4月移転されたもので旧社地跡は北方約400m離れた台地であった旧社地跡の記念碑も土地改良によって北方約100mの畑地に移されてゐる。
下野国誌によれば「オオサキ」と稱しているが当社近郷では「オオマエ」とよんでゐ。
尚当社境内と近隣に九世紀と考えられる「タタラ」跡が三基確認され鎔工傍らに住みたる多くのも見られ字天国府字国造字城坊などの地名もあり古代よりの社歴を物語る
茲に見聞を記し沿革史を建立す
昭和63年4月3日

社頭石碑



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