下野総社とされている。 総社と、式内大神社の関係は不詳。総社であった社に、三輪神を勧請し、相殿に祀ったか、大神神社境内に、総社を祀ったものか。 この地は、歌枕で名高い室の八島の地である。 |
由緒 崇神天皇48年、豊城入彦命東征の折、当室八嶋の地に大和三輪の大物主神を奉斎したと伝えられる。保元平治の頃は社殿宏大にして美麗この上なしと称へられた。戦国に入り小田原北条と皆川氏との戦いの際、兵焚に会い社殿宝物悉く灰に帰し、その後、復興の力なく荒廃した。三代将軍家光公により社領三十石、松苗一万本の寄進と諸大名よりの寄進により、天和2年5月、現在の形に復興し、更に大正13年、野中氏により大改修あり現在に至る 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大神神社 今から1800年前に、大和国三輪山の大三輪神社の分霊を奉祀し建立されたと伝えられ、別名「八島大明神」。境内の池には8つの島があり、八島が祀られています。池からは絶えず水蒸気が立ちのぼり、煙の名所「室の八島」と称され、「糸遊に結びつきたるけぶりかな」(松尾芭蕉)をはじめ、多くの歌人に詠まれています。 社頭掲示板 |
下野惣社 (史跡) 惣社明神、室の八嶋明神ともいう。下野惣社として知られたもので、祭政一致の時代、毎朝国司がおまいりした神であり、それは下野国中に分布する神々におまいりをするかわりにこの神社に奉幣する。いわゆる惣社の神であった。おおみわの神は大和の三輪神で、山そのものが御神体として知られている。国司がその神をおむかえし惣社に相殿としてまつったものがいつの間にかこの神の名を以って、おおみわ神社と唱えられることになったものです。 社頭掲示板 |
室の八島 當地は、歌枕で名高い室の八島の地である。現在境内には、池の中に八つの橋を渡して、それぞれに小祠を祀つてある島があり、これを室の八島と称してゐる。古代から東國の歌枕として都にまでその名の高かつた室の八島が、現在残るやうな形であつたかどうかについては、具体的資料が残つてゐないため不明であるが、古くはこの地から不思議な煙が立ち昇つてゐたので、「煙り立つ」が室の八島にかかる枕詞になつてゐた。保元元年(1156)頃成立したと言はれる藤原清輔著の『袋草紙』には次のやうな話が記されてゐる。 源経兼下野守ニテ在國之時、或者便書ヲ持テ向國府、不叶之間、無術之由ナンドイヒテ、バカバカシキ事モセズ、冷然トシテ出テ一二町計行ヲ、更ヨビカヘシケレパ、不便ナリトテ可然物ナド可然物ナ下可賜カト思テ、ナマジヒニ帰來二、経兼云、アレミタマへ、ムロノヤシマハ是ナリ、ミヤコニテ人ニカタリタマヘト云々、禰腹立氣有テ出云々、 源経兼は承徳2年(1098)に下野守に任ぜられてゐる。その他藤原俊成の家集『長秋詠藻』には次のやうな歌がある。 前中納言師仲卿、下野國より帰京して後、配所にしてよみたりける歌どもとて、見せに遣したりしを返すとて、添へてつかはしける。 いかばかり露しげければ東路の 言の葉にさへ袖の濡るらむ 返し 師仲卿 思ひやれ室の八島にしほたれて 煙になれし袖のけしきを その他『平治物語』や『詞花和歌集』、『新古今和歌集』等には室の八島を詠んだ和歌が五十首余り見られる。「室の八島」については、室とは地名であり、八島はかまどのことで、「かまどから立ちのぼる煙」と解繹する説もあり、又、煙とは清水から立ち上がる水蒸氣を指すとの説もある。當社の付近一帯は、海抜50−55mの等高線が東西にほぼ平し行て走る北西の高くなつた傾斜地で、幾つもの湧水地がある。東山道を北進して下野國府にさしかゝる時、この湧水から立ちのぼる水蒸氣が、 式内社調査報告 |
大神神社 上古の歴史、文学などの夢とロマン溢れる下野国を代表する神社。 口碑には崇神天皇48年創建とあり、『延喜式』にも載る伝統ある神社。下野国府の至近に鎮座し、下野国の惣社(そうじゃ)という格式を持つ。春は五穀豊穣を占う流鏑馬神事、秋には安産子育・醸造祈願の御鉾祭(おぼこまつり)が古来より行われている。 鎮座の地は歌枕として名高い「室の八嶋(むろのやしま)」であり、勅撰集・私家集などに幾多の歌が詠まれている。俳聖とされる芭蕉の「奥の細道」や、その他「慈元抄」「神道集」「袋草子」「浅間御本地開来」など多くの文学作品に数々の伝統が登場する。境内の池には八つの島が浮かび、それぞれに御社が配されるという珍しい景観であり、現在でも「水煙の名所」として、多くの俳人・歌人が訪れる。 栃木県神社庁 |