敏馬神社
みぬめじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】敏売神社 摂津国 八部郡鎮座

   【現社名】敏馬神社
   【住所】兵庫県神戸市灘区岩屋中町4-1-8
       北緯34度42分12秒,東経135度13分7秒
   【祭神】素盞烏命 (配祀)天照皇大神 熊野坐神
       本来は敏馬神『式内社調査報告』
       『神祇志料』「美奴売神を祀る。蓋素盞鳴尊也」
       『摂陽神社巡覧』「天照大神、熊野権現、牛頭天王三社を祀る」
       『須磨明石名所記』「牛頭天皇祠素蓋鳴尊を祀る」

   【例祭】 10月10日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】神功皇后摂政元年創建
       明治6年(1873)8月村社
       大正4年8月神饌幣帛供進指定神社
       同年更に郷社
       昭和5年9月県社
       昭和20年6月5日に載災により焼失
       昭和27年10月本殿を再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】はじめ能勢郡美奴売山に坐していた

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天皇」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所・倉庫・手水舎

   【境内社】松尾神社・稻荷神社・水神社
   【境内図】 境内図

阪神電鉄岩屋駅南国道2号に面して鎮座する。
この神社の神ははじめ能勢郡美奴売山に坐していたが、神功皇后凱陣の際神意によつて船がこの地に留まり、神がこの地に鎮座したという。
延喜式玄蕃寮の項には、新羅の使節が来朝した時、生田神社で醸した酒を敏馬浦においてこれを給したことが見えている。この事は慰労供応ということよりもむしろ蕃客の国土上陸に控へて、まず「祓へ」の意味が課せられていたのではないか。
この地は万葉集によく詠われている地である。
またこの地は大化改新頃敏馬泊といい難波の外港として繁栄した。
『摂津名所図絵』に「三犬女清水社頭の西、石階の側にあり、凄冷にして寒暑の増減なし。霊泉なり。」とあるが、現在も「閥伽井(あかい)の水」として信仰され、この井戸を大切にしている。


由緒

当社の旧記は、慶長年間(1600年頃)兵火にかかり焼失して伝わらないが、諸文献によって考察することができる。奈良時代の摂津風土記(七一三年)に「美奴売とは神の名で、神功皇后が新羅へご出発の時、神前まつばら(豊中)で神集いをされた処、能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神様がこられ、わが山にある杉の木をきり船を造りて新羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。その通りなされると、大成功をおさめた。お還りの時、この地で船が動かなくなったので、占い問うと神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した」とある。これ当社の縁起にして、神功皇后摂政元年(201年)の御創建となる。また平安時代の延喜式(927年)の神名式に生田・長田神社と並びMI売神社が記載されている。延喜式に記載される神社を式内社といい、最も古い由緒を誇る格式のある神社である。
「MI」は、さんずいに文です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




敏馬神社

祭神 素盞鳴命  天照皇大神  熊野座大神 当神社に関する最古の記録は奈良時代の風土記(713)「美奴売とは神の名、神功皇后が新羅へご出発の時、能勢の美奴売山の神様の「わが山の杉で船を造れば幸いあり」とのお教えを守られ大勝利を納めた。ご帰還の節此の地で船が動かず占い問うと「神の御心なり」と、故に美奴売の神様をこの地におまつり致す。これ当社のご創建の縁起にして西暦201年にあたる。敏馬はミヌメとよみ古来より美奴売・美奴面□売。三犬女・見宿女ともかかれる。
平安時代の延喜式に?売社の名あり延喜式に記載された神社を式内社といい神戸で最も古い格式高い神社の一つである。
この地は大化改新頃敏馬泊といい難波の外港として繁栄。延喜式に新羅使節来朝の節この地で酒を給すとあり。神戸最初の港でもある。万葉集に航海安全を願う人麿・旅人など十首の歌があり、港は奈良時代中頃大輪田へ移るがその後昭和はじめ迄白砂青松の景勝地として多くの歌人の遊び賑わう所となる。
石段の崖は6000年前縄文時代に海面が高くなったとき海岸に沿って続いた波食崖のあと。

社頭掲示板



敏馬神社

岩屋地区・味泥地区・大石地区の氏神さま
敏馬神社と氏子地の歴史
敏馬神社宮司花木直彦記す
(1)『敏馬神社』の『敏馬』をどう読むのですか。
世間では今『みるめ』と呼んでいますが、正しくは『みぬめ』です。古代には、美奴売・美奴面・三犬女・■売とも書きました。日本に漢字が伝わると、漢字の音を当てはめて記したのでしょう。だからとても古い言葉です。
元の御祭榊『みずはのめのかみ(水の神様)』から『みぬめ』の名称が生まれたと考えられます。
(2)『敏馬』といえば、今ほ『敏馬神社』にしか名称が残っていませんが、いつごろご創建されたのでしょうか。
奈臭時代の『摂津風土記』に『神功〈じんぐう)皇后が、能勢の美奴売山(今は三草山〉の神様のお告げにより、美奴売山の杉の木で船を造って朝鮮へ出兵したところ大勝利を収めた。帰還の際、この地で船が動かなくなったので、占い間うと神の御心なりと。よって美奴売山の神様を、この地におまつり致した』
ご創建で、今年がご鎮座1800年なります。また、平安時代に編纂された延喜式に「生田、長田、敏馬」と記され(延喜式に記載された神杜を式内社といい、格式の高い神杜である〉市内最古の神社の一つであります。
ご祭神は、素盞鳴命(すさのおのみこと)、天照皇大神、熊野座大神の三柱。
(3)『敏馬神社』以外に、なぜ古代に『敏馬』の名が登場するのですか。
大和時代から奈良時代中頃まで(6〜8世紀)『敏馬の泊(みぬめのとまり)』と呼ばれた港でした。当時の都は大和地方にあり、都人が文化の高い中国・韓国(遣隋使、遣唐使ら)へ出かける時、航海技術未発達の当時は日中しか航海できず、難波の津(大阪)から船出し・敏馬の港で一泊しました。また、平安時代の書籍には『新羅人が来ると、生田杜で醸した酒を敏馬でたまわる』とあり、都へ入るための「けがれをはらう」性格をもつ港であったとも考えられます。
(以下略)



万葉集

大伴旅人 敏馬の崎を過[ヨ]ぎる日に作る歌
妹と来し敏馬の崎を帰るさに独し見れば涙ぐましも(449)
行くさには二人吾が見しこの崎を一人過ぐれば心悲しも(150)
田邊福麿
八千桙の 神の御世より 百船の 泊つる泊と 八島国 百船人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦浪さわぎ 夕浪に 玉藻は来寄る 白沙 清き濱邊は 往き還り 見れど飽かず 諾しこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲びけらしき 百世歴て 偲はえゆかむ 清き白濱(1065)
反歌
まそ鏡 敏馬の浦は 百船の過ぎて往くべき 濱にあらなくに(1066)
濱清く浦うるはしみ神代より千船の泊つる大和田の濱(1067)
また柿本人磨呂の碑がある。
珠藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が崎に 舟近づきぬ(250)



伝承

婚礼の列が社前を通るとその結婚は不縁に終わるとの伝えがある。どうしても通らねばならない場合には神社裏の国道を通ったとのこと。
元々女神を祭る神社だから神が嫉妬するとのようだ。 これでは到底神前結婚式はできないだろう。
また縁切りのまじないもあり、拝んでもらった砂を相手の食事に少量まぜて食べさせると直ちに効くという。 砂を食べさされたら、別れる気にはなるだろうが、砂を噛む思いの伝承ではある。



敏馬の泊・浦のうつりかわり

大和時代(八世紀)この高台は海に突きだした岬で東側は港に適した入り江であった。当時敏馬の泊一帯の地名は「津の国津守郷」。港の管理者が居住していたことが分かる。 大和の人が九州韓国へ行く時大阪から船出し敏馬の泊で一泊、大和が遠望できる最後の港、逆に帰る時はなつかしい大和が見える最初の港。また朝鮮人が来朝すると生田社でかもした酒を敏馬でらまう(延喜式)とあり機内に入るためにけがれを祓う港でもあった。 以上の様に大和の人に特別の感情をもつ地であっので万葉集には大和以外の地では稀に見る多くの浦が詠まれた。境内には柿本人麿と田辺福麿の歌碑がある。
なら時代後半(八世紀後半)航海の進歩と共に港は西の大輪田の泊へ移るがその後は白砂青松の美しい海岸は都の歌人達の賞でる所となり「みぬめ」と「見る眼」を掛詞にした浦が多く詠まれた。
江戸時代、神社前は西国街道の浜街道として往来繁しくまた氏子地に酒造・廻船業が栄えその財力を頼り多くの文人が訪れ当地にも文学(特に俳諧)がおこった。当社に俳諧奉納絵馬二扁が現存する。
明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にあったが昭和の初め海岸の埋め立て、20年の戦災で往時の姿をなくした。
鎮守の森だけが往時を偲ぶ唯一のよすがである。

社頭掲示板



詳細ボタン


摂津国INDEXへ        TOPページへ



順悠社