敏馬神社
みぬめじんじゃ


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【敏馬の泊・浦のうつりかわり】

大和時代(八世紀)この高台は海に突きだした岬で東側は港に適した入り江であった。当時敏馬の泊一帯の地名は「津の国津守郷」。港の管理者が居住していたことが分かる。 大和の人が九州韓国へ行く時大阪から船出し敏馬の泊で一泊、大和が遠望できる最後の港、逆に帰る時はなつかしい大和が見える最初の港。また朝鮮人が来朝すると生田社でかもした酒を敏馬でらまう(延喜式)とあり機内に入るためにけがれを祓う港でもあった。 以上の様に大和の人に特別の感情をもつ地であっので万葉集には大和以外の地では稀に見る多くの浦が詠まれた。境内には柿本人麿と田辺福麿の歌碑がある。
なら時代後半(八世紀後半)航海の進歩と共に港は西の大輪田の泊へ移るがその後は白砂青松の美しい海岸は都の歌人達の賞でる所となり「みぬめ」と「見る眼」を掛詞にした浦が多く詠まれた。
江戸時代、神社前は西国街道の浜街道として往来繁しくまた氏子地に酒造・廻船業が栄えその財力を頼り多くの文人が訪れ当地にも文学(特に俳諧)がおこった。当社に俳諧奉納絵馬二扁が現存する。
明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にあったが昭和の初め海岸の埋め立て、20年の戦災で往時の姿をなくした。
鎮守の森だけが往時を偲ぶ唯一のよすがである。
社頭掲示板


【敏馬神社】

式内社 敏馬神社御由緒
御祭神 素盞烏命 天照皇大神 熊野坐神
神戸で最も古い神社の一つである敏馬神社のご由緒は奈良時代の「摂津風土記」に書かれている『美奴売とは神様の名前、神功皇后が新羅へご出兵の時、神前松原(豊中)で神集いをなされた処、能勢の美奴売山(三草山)の神様が参られ「わが山にある杉の木を伐り船を造りて行かれるならば幸いあり」とのお教え通りにすると大成功であった。ご帰還の時、この地で船が動かなくなり、再び占い問うと「神の御心なり」と。よって、この地に美奴売の神様をお祀りし、船も献上致した』(下の境内東側に風土記の碑あり)。
この記述から御創建には神功皇后摂政元年(201)また一説には倭・飛鳥時代(6〜7世紀)に栄えた「敏馬の泊」の港の守護神を祀られたとも。
当神社の都の人々は、敏馬の神様に航海安全を祈り和歌を献上し旅立った(万葉集に9首の歌あり)。
平安時代の延喜式神名帳に記載された神社を「式内社」といい、敏売神社の名もあり、格式高く由緒正しい神社。元の社格は県社。
古来より多くの人々の信仰を受ける神社。
夏季大祭 7月13・14日
秋季大祭 10月体育の日の前の土・日
社頭掲示板


【古代の敏馬の泊と敏馬神社】

(1)「敏馬神社」の読み方は、「みぬめ」?「みるめ」?
世間では「みるめ」と呼んでいますが、正しくは「みぬめ」と読みます。古代には美奴売、美奴面、見宿女、三犬女などとも書かれています。日本に漢字が伝わると、漢字の音を当てはめ記したと考えられます。古い言葉・地名です。
(2)「敏馬神社」は、いつごろ創建されたのでしょうか?
奈良時代(8世紀)の「摂津風土記」に”神功皇后が、朝鮮出兵に先立ち、神前松原(今の神崎川)で神様のお集めになり占ったところ、能勢の美奴売山(今の三草山)の神様のお告げにより、美奴売山の杉の木で船を造って出兵したところ大勝利を収められた。ご帰還の際にこの地で船が動かなくなり、再び占い問うと「神の御心なり」と。よって美奴売山の神様をこの地におまつりし、船も献上した”と当社の縁起が記されています。この記述から推測すると、201年のご創建で、平成23年でご鎮座1810年となります。平安時代(10世紀)編纂された「延喜式」にも「生田、長田、敏馬」と記載され(延喜式に登録された神社を、式内社といい、格式の高い神社)市内最古の神社の一つでもあります。ご祭神は素盞嗚尊、天照皇大神・熊野座大神の三柱です。
(3)なぜ「敏馬」が、全国に知られているのですか?「敏馬の泊(とまり)」の話
@日本最初の和歌集「万葉集」に敏馬を詠んだ和歌が9首もあり、大和地方以外で、こんなに多く詠まれた場所は、大変珍しいと言われています。
※玉藻かる 敏馬をすぎて 夏草の 野島の崎に 舟ちかづきぬ (柿本人麻呂) 以下省略…
A万葉の和歌から分かるように、神社の東側に、大和時代・奈良時代(5〜8世紀)「敏馬の泊(とまり)」という全国的に知れ渡った港がありました。 当時の都は、大和の飛鳥地方にあり、都人が文化の高い中国(遣隋使、遣唐使ら)や朝鮮・九州へ行く時、当時は日中しか航海できず、浪速津から船出し、敏馬の港で一泊しました。また「新羅人が来朝すると、生田社で醸した酒を敏馬でたまう」とあり、都へ入るための「けがれを祓う」また「饗宴・もてなしする」性格をもつ港でもありました。日本で最も古い国際港でした。
Bなぜ「敏馬」に関して多くの歌が詠まれたのですか?
航海技術未熟な当時、大陸への航海は全く死と隣り合わせで、大変な勇気と覚悟とひたむきな向上心がなければ旅立てなかったのです。その彼らが旅立つ時、畿内の一番西端ある敏馬の港は、ふるさと大和近くの生駒連山を望める最後の港であり、また帰還の際は、懐かしい生駒連山を望める最初の港であったと考えられます。故に、敏馬の神様を讃える和歌を詠み、航海安全を祈って旅立って行かれました。
C奈良時代の中頃より、港は「敏馬」より「大輪田(兵庫)」へ移ります。その後、「敏馬」は歴史上どのように登場するのですか?
平安時代以降は、白妙青松の美しい海岸「敏馬の浦」として都人の称賛する所で、「みぬめ」の地名と「見ぬ眼」を掛け詞にして、多くの有名な歌人が和歌を詠み讃えました。藤原定家(百人一首撰者)兼好法師(徒然草作者)らを始め、現代では谷崎潤一郎、冨田砕花まで50首余あります。
また明治時代以降、外国人や大学のボートハウス・料亭・芝居小屋・花街などがあり、海水浴場としても賑わいました。
Dでは、「敏馬の浦」は、いつころなくなったのですか?
昭和6年頃より、阪神電車の岩屋〜元町間のトンネル工事の残土で、敏馬の浜は順次埋め立てられ、財閥鈴木商店の子会社の神戸製鋼所の工場となり、60年間神戸のの産業を支えてきました。しかし、阪神淡路大震災で工場は撤退し、HAT神戸として大きく変貌しました。
(4)敏馬神社近くに、今一つ万葉集に登場する所があると聞きましたが?
神社の東500Mにある「西求女塚(もとめづか)」です。国指定の史跡で、全長98Mの前方後方墳で、当時の豪族の墓です。発掘調査により三角縁神獣鏡7面(重文)が出土、3世紀後半の築造と確認されました。灘の海岸沿いには、等間隔で3つの古墳があり、この古墳関して高橋虫麻呂、田邊福麻呂が「万葉集」に、下記の内容の悲恋物語の歌を詠んでいます。「この地に住む一人の大変美しい乙女(あしやうないのおとめ)に、二人の青年(うないのおとこ、ちぬのおとこ)が熱心に求婚。美しい乙女をえるため、二人の青年は互いに武器を取り争う。乙女は苦しみ「とるにたらない私のために、立派な青年が争うのは見るに忍びない。黄泉の国でお待ちしましょう」と自ら命を絶ってしまう。二人の青年もあとを追って自殺。親類の人達は、この悲恋を後世まで語り継ごうとして、三つの墓を造った」
この物語は、平安時代の「大和物語」、室町時代の謡曲「求塚」、明治時代の森鴎外の小説「生田川」にも語られています。あとの二つの墓は、”処女塚(おとめづか)”阪神石屋川駅南西200M ”東求女塚”阪神住吉駅北側
(5)江戸時代に、神社前を「西国街道」が通っていたとききましたが?
@西国街道とは、京都から九州へ行く道。芦屋付近から2本に分かれ、海岸線を通る浜街道(庶民の道、神社前)と今の国道2号撰にあたる本街道(参勤交代の道)がありました。この2本の道は、生田神社前で合流しました。当時は浜街道沿いに発展し、特に大石・御影周辺に民家が集中し、灘で一番賑やかな所でした。
A灘といえば「灘の生一本」で有名です。六甲山の南に位置する灘地方は、米を精白する六甲山麓の水車の存在、酒造に適した宮水、丹波杜氏に代表される豊かな労働力、輸送に適した海岸などの諸条件に恵まれたため、江戸時代中頃(18世紀)より酒造業が繁栄しました。氏子地の岩屋・味泥・大石は、新在家とともに灘五郷の一つ西郷(にしごう)に属し、酒造家、江戸へ酒を運ぶ樽廻船業者が多数存在しました。当社にも樽廻船業者の奉納した6基の灯籠・航海安全を祈願し奉納した樽廻船絵馬14篇(神戸市有形民族文化財指定、17〜18世紀)が保存されています。また当社の御旅所住吉神社(大石南町)の西隣に、沢の鶴資料館があります。灘五郷とは、西郷・御影郷・魚崎郷・今津郷・西宮郷。
B江戸時代、資産家の酒造・廻船業家を頼り多くの文人がこの地に訪れました。有名な人は、俳人の与謝蕪村とその弟子達でしょう。
灘の景色を見て 「菜の花や 月は東に 日は西に」 「畑打ちに 眼をはなれずよ 摩耶ヶ岳」
須磨の海を見て 「春の海 ひねもすのたり のたりかな」
彼の有名な弟子、呉春 「いわし曳く 網をはじめて 敏馬かな」
           大魯 「広沢は いかに敏馬の 月清し」
当地にも優れた多くの俳人(松岡士川・士巧)が輩出し、当社に彼らの奉納した俳諧絵馬(天明年間・18世紀)が保存されています。
敏馬神社 宮司 花木直彦
由緒書



敏馬神社

 『摂津風土記』逸文に、「美奴売とは神の名なり。神功皇后が新羅へ出兵の時、神前松原で神集いをされた。その時、能勢の美奴売山の神様が参られ、『吾が山の杉の木で船を造りて行かれるならば幸いあり』と御教示され、大勝利を収められた。帰還の節、この地で船が動かなくなり、再び占い問うと、『神の御心なり』と御教示された。故に、美奴売の神様をこの地にお祀りし船も献上した」と記される。神功皇后摂政元年(201)の創建。
 社殿は、かつて「敏馬の崎」と呼ばれた高台にあり、東側は大和時代頃より「敏馬の泊」という神戸最初の港で、遣隋唐使も立ち寄ったという。『万葉集』には「敏馬」を詠んだ和歌が九首。境内には柿本人麿・田辺福麿の歌碑があり、万葉ゆかりの神社としても有名である。
 古来より公家諸大名庶民の信仰篤く、多数の奉納品が現存するが、特に江戸時代の「樽廻船絵馬」は美術的価値の高いもので、神戸市指定有形民俗文化財。
 寛政年間建立の本殿は昭和20年(1945)戦災で焼失、同27年(1952)改築された社殿は、阪神淡路大震災で倒壊したが、復元修復をなした。

兵庫県神社庁



敏売神社

敏売は美奴女と訓べし〇祭神美奴売神○今菟原郡徳井荘岩屋村に在す、今三社と称す、○摂津國風土記云、(万葉注釈所引用)美奴売松原、

神社覈録






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