長田神社
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   【延喜式神名帳】長田神社(名神大 月次/相嘗/新嘗) 摂津国 八部郡鎮座

   【現社名】長田神社
   【住所】兵庫県神戸市長田区長田町3-1-1
       北緯34度40分16秒,東経135度8分48秒
   【祭神】事代主神
   【例祭】10月18日 長田まつり例祭
   【社格】旧官幣中社
   【由緒】大同元年(806)神封四十一戸
       貞観元年(859)正月従四位下
       明治18年官幣小社に、
       同29年官幣中社

   【関係氏族】長我孫(ながのあびこ)/長柄首/長田公
   【鎮座地】鎮座地に変更無い

   【祭祀対象】本来は川を祀る
   【祭祀】江戸時代は「長田宮」「長田大明神」と称していた
        社名や祭神、鎮座地に変更無く継承されている

   【公式HP】 長田神社
   【社殿】本殿三間社流造
       幣殿・拝殿・左右樂所

   【境内社】天照皇大御神社・八幡社・蛭子社・松尾社・出雲大社・月読社・稻荷社

苅藻川の東岸に鎮座する。
神功皇后摂政元年春2月、皇后が新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾を御心長田の国に祠れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛を奉仕者として創祀された。
古来より社名も長田宮・長田大明神と称されこの地で祭祀が継承されて来ている。
鎮座地長田神社の境内をみると、苅藻川の流域にあつて、古代は「中島」となつて周囲の流れから隔絶された神聖な場所であつたようである。
長田神社でとりわけ有名なのは節分に行われる追灘式である。
また当社の禁忌習俗として、長田の氏子は古来鶏や卵を食べない。



由緒

神功皇后摂政元年(西暦201年)御神託により此の地に創祀されたと傳えられる我国有数の名社である。事代主神は、古来、皇室守護、国家鎮護の神として、全国的に篤く信仰されている。
特に毎月一日、十五日は古くより御縁日として賑わい市民より「長田さん」と仰ぎ親しまれ、氏子崇敬者は常に高き御神恩に感謝奉賽の誠を捧げている。新年初詣の盛況は、全国的に有名で宏大無辺の御神徳の表徴である

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




長田神社

御祭神 事代主神
御鎮座地 神戸市長田区長田町3−111
例祭 10月18日 神幸祭10月19日
主な祭典、行事
歳旦祭  一月一日
初詣で。「長田さんのお正月」と呼び、三日間の参拝者は約百万人を数える。
本宮恵美主祭 翁御面掛式
       一月十日
追儺式    二月節分
紀元祭    二月十一日
楠宮稲荷初午祭 初午日
祈年祭    三月十七日
眼鏡感謝祭  四月一日
天長祭    四月二十九日
商工祭    四月三十日−五月三日
にこにこ会祈願祭 六月一日
夏越祭    七月十七、十八日
薪能     八月一、二日
日供講々員大祭  九月中旬
例祭     十月十八日
神幸祭    十月十九日
新嘗祭    十一月二十三日
長田乃宮婦人会 祈願祭 十二月初旬
月次祭毎月一日、十五日
「おついたち詣り」は縁日として早朝より参拝者でにぎわう。
鎮座と沿革
神功皇后摂政元年2月、皇后が新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾を御心長田の国に祠れ」とのお告げにより、山背根子の女、長媛をして創祀せしめられた全国有数の名社である。(日本書紀)古来、皇室をはじめ武門の崇敬あつく、延喜の制には名神大社、祈雨八十五座に数えられ、明治29年には官幣中社に列せられた。
御神徳
事代主神は世に「恵美主さま」「福の神」とも申し上げ、商工業をはじめ、あらゆる産業の守護神、開運招福・厄除の神として崇敬され、神戸市民から「長田さん」と親しまれて、神戸市の精神的基盤として大きな地位を占められている。
遠く神代の昔、平和と円満を心とされて、父神・大國主神の「國譲り」の大業を助け給い、日本國家の基礎確立に大きな役割を果されたほか卒先して皇孫をお守りになり、やがて言霊鎮魂の神、國家鎮護、皇室守護の神として宮中八神殿に奉斎され給い、皇室の篤い崇敬をうけておられる。
降って神功皇后の新羅御親征という國家非常の際、再び御神徳を現わされて皇軍を守り給い、その御帰還の途中で自ら託宣されて海外発展の要地である神戸・長田の國にお鎮まりになった。
国譲りにおける平和と誠の精神の具現と現在、世界の海に連なるミナト・神戸の繁栄を予知、啓示された御鎮座の由来は、まことに深還、広大な御神徳と申すべく、およそ天地の間、すべての物事を照覧し給う広大無辺の御神徳は「於天事代 於虚事代玉籤入彦厳之事代主神」の御尊号に示される通りで、今日、神戸市民が父神、大国主神から絶大な信頼を受けられ、先の先までお見通しになる福徳円満・平和の神、商売繁昌の神、皇室守護の神と仰ぎ、・格別の崇敬と敬慕の誠をささげる由縁である。
社殿
創祀以来の沿革は不詳であるが、寛文元年(1661)再建された本殿はじめ諸社殿は、大正13年1月炎上したが、昭和3年、皇室、皇族の御下賜金と國費、氏子崇敬者の浄財により朱の諸社殿が再建された。神戸市内で戦災を免がれた唯一の社殿で、昭和36年から38年にかけて御修造奉賛会の手により丹青の彩色が再現されたほか社務所、儀式殿が竣工、さらに昭和55年10月には御再建五十年御修造事業により本殿はじめ緒社殿、神門・廻廊等の屋根葺替・塗替はじめ近代的な参集殿、宝物庫、茶室兼参籠室が完成、面目を一新した。
参集殿(昭利54年12月竣工)鋳造円柱鉄骨造、二階建(一部三階)入母屋銅板葺。冷暖房、放送、防災設備を完備した、500平方mの優雅な建物で、茶室を兼ねた貴賓室、参籠室のほか300名収容の大広間、衣裳、化粧室、挙式相談室等があり、儀式殿・社務所と廊下で結ばれ、一連の建物は斎館・社務所並びに近代的な総合結婚式場として市民に親しまれている。
儀式殿
(昭和38年10月竣工)総桧づくり、入母屋銅板葺、150平方mの神前結婚式場。神職、巫子七名奉仕による厳粛な式が執り行われている。
茶屋「樟蔭亭」
(昭和55年10月竣工)数奇屋づくり、約60平方mの風稚な建物。
十畳の茶席のほか控間などがあり、長田神社茶花道会活動の拠点となっている。
社宝文化財
・黒漆金銅装神輿(國重要文化財)
伝源頼朝奉納。特に装飾具が優れ、康正3年(1457)修理されている。昭和44年國の重要文化財に指定され、昭和59年文化庁の手により解体修理が行われた。
よく古神輿の姿を伝えている。
・雨乞いの石灯籠(兵庫県重要文化財)
伝村上天皇御奉納。高さ六尺五寸余、弘安9年(1286)奉納の銘があり、昭和12年国から重要美術品に指定されたが、現在は兵庫県指定重要文化財。
・太刀拵(兵庫県重要文化財)
伝源頼朝奉納。柄革包、長さ106cm、103cm、の二振で、刀身は無銘。下緒等の拵の美術的な価値は、高く評価されている。
・追儺式(兵庫県重要無形民俗資料)
毎年二月節分に行われる古式神事。前日より厳重な潔斎をした七名の鬼役によって奉仕される。この鬼は神のお使いとして、神に代って松明をふりかざして災厄を焼きつくし、祓う所作(踊り)をするが、起原は室町時代までさかのぼるといわれ、よくその昔の古式を今に伝え、当日、使用する鬼面七面とともに昭和45年指定された。
・古文書
鎌倉以降の神主職補任状、社領寄進状等のほか占絵図などを社蔵。
これらの社宝、文化財は、いずれも昭和55年9月、竣工した宝物庫(入母屋銅板葺、耐震耐火構造平屋建90平方m)に収蔵されている。
境内末社
・ 本殿瑞垣内に天照社、八幡社、境内東側に月読社、松尾社、同西側に出雲社、蛭子社の六社のほか楠宮稲荷社がある。楠宮稲荷社裏の楠の巨木は幹回り約五m、樹高約、三十m、樹令推定八百年。古来、御神木として崇敬され、赤ヱイの絵馬を奉納して祈願すると、痔病がなおるという信仰があり、中・四国や東海地方からの参拝者も多い。
長田神社と「にわとり」
事代主神が「鶏の声聞える里は、吾が有縁の地なり」と仰せられ、この地に鎮まりましたと伝えられる。古来、氏子は「にわとり」を神のお使いとして大切にし、戦前までは、多数の「にわとり」が境内に放たれ「にわとりのお宮」として親しまれていた。

由緒書



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