長田神社
ながたじんじゃ


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【公式HP】

御社名 長田神社(ながたじんじゃ)
御祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)
御尊号
於天事代    於虚事代    玉籖入彦     厳之事代主神
あめにことしろ そらにことしろ たまくしいりひこ いつのことしろぬしのかみ
鎮座と沿革
神功皇后(じんぐうこうごう)摂政元年春2月、皇后が新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾 (あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として創祀された全国有数の名大社である。(日本書紀 神功皇后摂政元年条 西暦201年と伝える)
古来、皇室をはじめ武門の崇敬あつく、延喜式の制では名神大社 更には祈雨八十五座に列し、神戸(かんべ)41戸もって奉祀護持され、今日の神戸発展の守護神と仰がれている。神戸の地名はこの神戸(かんべ)に由来する。
日本書紀に云う長田国は、東は湊川(現新開地)、西は須磨一ノ谷(摂津・播磨の国境)を云い、その中央を流れる苅藻川の中州に奉斎された。現在の長田区、兵庫区、須磨区、北区南部を云う。
又、古伝によれば「鶏鳴の聞こゆる里は、吾が有縁の地なり」とのお告げにより、にわとりが神の使いと尊ばれ、奉賽の鶏が境内に群れ遊び、外国人より「チキンテンプル」と親しまれた。
明治29年、官幣中社に列格。
御神徳
事代主神は、世に広く「恵美主(えびす)さま」「福の神」ともお讃え申し上げ、商工業をはじめ、あらゆる産業の守護神、日々の生活の開運招福・厄除解除の神として崇敬され、神戸市民から「長田さん」と親しまれて、神戸市民の心の拠り所、願いを叶え応える神として篤く敬仰されている。
神話に語り伝えられている如く、遠く神代の昔、平和と円満を心とされて、父神・大國主神(おおくにぬしのかみ)の「國譲り」の大業を助けられ、日本國家建国の基礎確立に大きな役割を果された。
更には、國家鎮護の神、皇室守護の神、言霊鎮魂の神として、宮中奉斎八神の一柱と宮中神殿に奉鎮され、皇室の篤い崇敬をうけておられる。
日本書紀に伝える、神功皇后の新羅遠征という國家非常時に当たり、再び御神徳を現わされて皇軍を守り導き給い、その御帰還の途中自らの御神意を以て、海外発展の要地である神戸の地にお鎮まりになり、1800年を迎える。
國譲り神話の平和と誠の精神の具現と国内外の統一平定、今日世界の飛躍する海の玄関・ミナトー神戸の繁栄を予知・啓示された御鎮座の由来は、まことに深遠広大な御神徳である。
広大無辺の御神徳を称えて「於天事代 於虚事代 玉籖入彦 厳之事代主神」と申し上げる。
意味するところは、「およそ天地の間、天上界地上界、又宇宙間すべての物事を照覧し給い、あらゆる物事を知り、守り、教え、諭し、導き給う神」の御尊号に示される通りである。
今日、神戸市民は、父神・大国主神から絶大な信頼を受けられた、先の先までお見通しになられる福徳円満の神、厄除解除の神、開運招福の神、商売繁昌の神、更には護国鎮護の神、皇室守護の神と仰ぎ、格別の崇敬と敬慕の誠をささげる由縁である。
阪神淡路大震災
先の阪神淡路大震災(平成7年1月17日発生)により、御社殿は甚大な被害を受け、倒壊を免れたものの本殿以下社殿は東西に動き南北に傾斜の半壊に近い状態となり、附属舎の全壊、又慶安三年(1651)奉納の馬場先大鳥居を始め四基の大鳥居、約80基の灯籠並び石造物は全て損壊した。
仮復旧を施し、平成9年6月震災復旧奉賛会を結成、氏子崇敬者の厚い崇敬の奉賽により三ヶ年の時期と約3億円を以て社頭は震災前の佇いとなり、平成12年7月14日震災復旧事業竣工奉告祭が斎行された。
又、震災当日より近隣の被災住民の困窮に応え、参集殿を臨時避難所として提供し水道・ガスの不通の不便の中ながら約1ヶ月間150名程が居住、境内は連絡場所並び炊き出し拠点として解放し、地域社会に対する貢献の一端を果たした。


【長田神社古式追儺式】

追儺(ついな)とは通称おにやらい、おにおいといい、我が国では西暦700年頃より毎年旧暦の大晦日に宮中、社寺などで行われていた年中行事で、現在の節分の豆まきの起源であるといわれています。
旧暦の新年・正月は現在の立春の頃にあたり、節分追儺式は新年を祝い迎えるお祓いの行事となっています。
一般に鬼は不吉なもの、災い、種々の不幸をもたらすものとされ、追儺式によってこの鬼を追い払い、新年の幸福と健康を願います。
長田神社の追儺式は室町時代から続く歴史のある神事で、神社で行われる追儺式としては珍しいものであり、兵庫県の無形民俗文化財に指定されています。
長田神社の追儺式に登場する鬼は、神々のお使いの鬼であり、神々に代わって鬼が災いを追い払い、清々しい新年を迎えることを祈って踊り舞います。
長田神社の古式追儺式には、7匹の鬼が神々のお使いとして登場し、松明の炎で種々の災いを焼き尽くし、太刀の刃で寄り来る不吉を切り捨て、天地を祓い国土を清めて、一年の家内安全、無病息災を願って、一陽来復の春が再び巡り来ることを喜び祝います。
長田神社では追儺式の当日、社殿正面に太陽と月、天と地を象徴する泰平の餅をぶら下げ、その左右には日本全国を表す榊葉で飾った六十四州の餅をぶら下げます。社殿中央には1年12ヶ月を表す12個の影の餅を置き、拝殿には宇宙と星、人々を表す餅花を飾り付けます。
古式追儺式は、節分祭により始まり、鬼、太刀役、肝煎りは、鬼の宿より威儀を正して練り込み(参進する)、節分祭に参列の後、社殿裏の鬼室で鬼支度をします。
追儺式が始まると、太鼓、ほら貝の音に合わせて、一番太郎鬼が松明を持って踊りながら社殿前の舞台に登場します。一番太郎鬼が退場後、次いで赤鬼、姥鬼、呆助鬼、青鬼が登場し、再び一番太郎鬼が舞台に上がり5匹の鬼が鬼の舞を披露します。
5匹の鬼の舞が終わると、大役鬼と呼ばれる餅割鬼が松明と斧を持って登場し、次いで腰に槌をつけた尻くじり鬼が松明と大矛を持って鬼踊りを披露します。
餅割鬼と尻くじり鬼の鬼踊りの後、赤鬼、姥鬼、呆助鬼、青鬼、一番太郎鬼が舞台上に登場し、太刀役から太刀を受け取る太刀渡しが行われます。太刀を渡された鬼は左肩に太刀を担ぎ鬼の舞を披露します。
その後、餅割鬼と尻くじり鬼が現れ、お礼参りの5匹の鬼が登場します。
追儺式の最後は、餅割行事で締めくくられます。餅割行事はお祓いを表す神事で、餅割鬼と尻くじり鬼が、泰平の餅、六十四州の餅、影の餅を割るための所作を繰り返しながら踊り、最後に餅割鬼影の餅を斧で割って追儺式が終わります。
(http://kobe.travel.coocan.jp/kobe/nagatajinja_setsubun.htm)


長田神社

ながたじんじや 兵庫遣神戸市長田区長田町。旧官幣中社(現、別表神社)。祭神、事代主神。社伝によれば、神功皇后凱旋の時、事代主神自ら「吾が御心長田国に祀るべし」と神誨されたことにより、山背根子の女長媛をして斎きまつらしめたと伝えられている。大同元年(806)に神封四一戸を充てられ、貞観元年(859)正月従四位下を授けられたと記録されている。『延喜式神名帳』には名神大社に列格され、四時祭の奉幣がなされ、蕃客入朝の際には神酒を賜るのを例としたが、その醸造の料として神祇官から稲五〇束を送られるのを常とした。鎌倉時代になると武将の崇敬をうけ、現に鎌倉期の黒漆金鋼製神輿一基が社蔵され重文に指定されている。天正年問(1573−92)に荒木志摩守が施行状を下し当社を氏神となし、豊臣秀吉も社領五五石を寄進した。また時代が下るに従って一般民衆も「長田さん」と呼び親しみ、御祭神が事代主神ということからえびす信仰とも通じて開運、招福の神として崇敬をうけ、特に一日参りがさかんなことから「おついたちさん」という呼称もなされている。例祭10月18日のほか、2月節分、4月30日から5月3日に至る商工祭などが盛んで、殊に節分の古式追儺式は県指定の無形文化財にもなり著名である。社宝に弘安9年銘の石灯籠、太刀持(室町時代後期)等がありともに県指定の文化財となっている。

神社辞典



長田神社

長田神社 名神大月次相嘗新嘗
長田は奈加多と訓べし、和名鈔、(郷名部)長田、(假字上の如し)○祭神事代主命○中荘長田村に在す○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、長田社一座、(坐摂津國)』同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、摂津国長田神社一座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、長田社一座、
類社
近江国高島郡、美作掴大庭郡長田神社、各一座
鎮坐 祭祀
日本紀、神功皇后代新羅之明年條に、事代主尊誨之曰、祠吾于御心長田國、則以葉山媛之弟長媛令祭、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津国從五位上勲八等長田神從四位下、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、摂津國長田神、遣使奉幣、為風雨祈焉、同9年11月12日丁未、遣使長田神社奉幣、先月祈五穀、今以賽焉、元慶元年6月14日癸未、奉幣長田祈甘雨也、
雑事
式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稻、摂津國長田社、五十束、送生田社、(全文大和國葛上郡高鴨神社の條見合すべし)

神社覈録






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