六甲山系の中腹に鎮座する。境内からの見晴らしはすこぶる良い。 保久良神社のすぐ北方から、弥生時代の高地性集落が見つかっており、保久良神社もおそらくこの高地性集落の一部ではなかったかと推測されている。 社名もこの場所から多数の弥生式土器の破片や石器類、銅戈が出土し、又古代祭祀の遺蹟地であった・祭祀用具の収藏庫即ち、秀倉(ホクラ)、神聖な収藏庫のある場所から発祥した名称ではないかと思われる。 社殿の周りには巨岩の磐境群がある。境内の南西部「立岩」、社殿西方に「神生岩」、東側には「三交岩」と称する巨石がある。 参道を通り抜けた南端、崖の際に「灘の一つ火」として崇拝されてきた灯明台があり、昔から航海者の一針路となつていた。神火をかかげて一日も絶えず奉仕をつづけてきたのである。 吉井良隆は当社を「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷の奥夷社の元宮」と推測している。 |
由緒 当社の境内外地は古代祭祀の遺蹟地と認められ環状石籬の内より発見せられつつある石器類弥生式土器が多数に出土し、重美に認定されたる銅才も出ている。それらの何れもが実用を離れ儀礼的用途をもつものと考証せられてあるを見れば祭祀の由来も極めて古きものであると証明せられる。社名の起因も 1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る 2、三韓役の戦利武器を収蔵するより とも称さられる。尚祝部土器、ハリ製曲玉、又は鎌倉期の青銅製懸仏も発見せられている。住吉大社神社記には布久呂布山の名が見え延喜式には社格、社名を登載し、建長二年重修の棟札を所持せる事が攝津志に記載せられている。保久良社又は天王宮とも称せられ中古本荘、近古本庄の庄の氏神にして社頭の灯明台の神火は灘の一つ火として崇拝せられ、昔から航海者等の一針路となっている。これらの事は祖神(珍彦)の代表的事蹟である。海路嚮導の行為とを考へると、氏子人の御遺徳を追慕し奉り、神火をかかげて一日も絶えず奏仕するなり、明治5年11月25五日莵原郡第六区の郷社に取極められる。昭和14年4月現在の建物が改築せられ境内地参道の整備が行はれた。昭和31年9月25日境内外に繁茂する楊梅林は神戸市の名木に推奨される。同42年4月1日兵庫県政施行百年を記念し兵庫県観光百選地に認定せられた。 近年氏子地に移住せられる人々も多くなり毎日登山参拝せられラジオ体操に民謡踊りにそれぞれ思いにまかせ運動を楽しんで居られる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
保久良神社御由緒 所在地 神戸市東灘区本山町北畑680番地 御祭神 須佐之男命 大歳御祖命 大国主命 椎根津彦命 由緒 創立年暦不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐境の遺跡地にして其れらより発見されつつある石器時代の石斧、石剣、石包丁、石鏃類、青銅器時代の銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土し西暦紀元前2.3世紀頃のものにしてそのいずれもが儀礼的なものたることの考証せられてあるを見ればその頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたる証拠なり。また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦769)等が祭祀したるとも神功皇后(西暦101)三韓の役の戦利武器を此の社地に収蔵し秦りしより起因するとも又社名の火倉、火の山、烽火場の地より起こりしとも称せられる。 尚祝部土器、玻璃玉の発見せられてあり平安時代の延喜式(西暦927)には社格・社名を載せ奉りてあり。 鎌倉中期の青銅製懸仏の発見されており摂津志には建長2年(西暦1250)重修の棟札の所持せることを記載する等上代より祭祀の存続せる事実を実証する資料となれり。 天王宮とも称せられ中古本庄の庄の氏神にして工業商業者はもとより多くの崇敬の中心となる。 当社の位置は(海抜185m)後に六甲の翠巒を負い前には茅渟の海を一望に見渡す最景勝地にして社頭に灯明台ありて毎夜北畑天王講の人々交替して御神火を点じ近海を渡る船舶の航路安全を祈る灘の一つ火として崇拝せられ古来より航海者等の一針路となる。 これは祖神の代表的事蹟たる海路教導の行為とを考え合すとき氏子人の祖神の御道徳を追慕する行事にして上代より現在に到るまでに長年月の間一日として絶やすことなく奉仕し居れり。 社頭掲示板 |
保久良神社 昭和13年(1938)社殿改築の時、神社境内外地は古代祭祀の遺跡地として認められました。 それは、社殿を取り巻く多くの岩石群が岩座・岩境を作り、その辺りから発見された弥生式・中・後期(紀元前200年〜紀元後200年くらい)土器石器が多数出土し、昭和16年には銅戈(重美)が発見され、そのいずれもが実用を離れ、儀礼的用途を持つものと考証されますところから、当神社祭祀の由来も極めて古いものと証明されました。 この事から推考しますと、椎根津彦命が倭国造となり大和一円の開発と共に、海上交通の安全確保のために、茅渟の海(大阪湾)の良きところを求め海辺に突出した、六甲山系の神奈備型の金鳥山を目指し、青亀(青木)で着かれ、緑深き山頂に神を祭祀する磐座を設けられ、国土開発の主祭神を奉齋して広く開拓に意を尽くされ、海上交通御守護の大任を一族に託されたのが、御鎮座の一因ではなかろうかと思われます。 社名起因の一つになった続日本紀の称徳紀に、『神護景雲3年6月(769)摂津菟原郡倉人水守等に大和連を賜う。』とあり、これは祖神の遺志を継承したその一族が活躍した記事であり、古くは社頭でかがり火を燃やし、中世の頃から燈篭に油で千古不滅の御神火を点じ続け、最初の灯台として『灘の一つ火』と多くの人々から親しまれ、現在は北畑天王講の人々に受け継がれております。 他の祝部土器、又鎌倉期の青銅製懸仏も発見されました。平安期の延喜式(927)には、社名・社格を登載し、建長二年(1250)重修の棟札を所持せしことが、摂津誌(1734)に記載されております。 保久良社又天王宮とも称し、中古本庄・近古本庄荘(芦屋川西岸から天上川まで)九ケ村の総氏神として崇敬され、明治五年氏子分離あり、現在は北畑・田辺・小路・中野が氏子地域となっております。」 由緒書 |
御祭神「椎根津彦命」の御事蹟 摂津国菟原郡(夙川西岸から生田川東岸までの間)の統治を委任された「命」は、多くの村里が良く見渡せる場と、海から昇る日輪(太陽)が遥拝できる場を兼ね合せた処を、会場から眺め探し求められ、最適な場所として、「ほくら山」を見つけられ、青亀を麓の真下の海岸に着けられました。 【この由緒から、青亀(あおき)が着いた岸辺・青木(おおぎ)の地名が起こる】 早速、青木→南田邊→北畑を経て山を目指して登られました。山頂から、眼下に広がる海・対岸の山々・東西に広がる村里を眺められ「命」の心に適合した場所であり、祭祀する場として清めた後、東から昇る日輪を遥拝し、大岩を並べ「磐座」とされ、「祖先神」(須佐之男命・大歳御祖命・大国主命)を祭祀して「農業生産・諸行繁栄・村里安全」を一族の人々と共に祈願されました。 【社名由来の一=「ホ」は「ヒ」(神霊)を集めた場(倉)から】 そして一族の人々共に、生活改善向上の策として、日々・常時「火種」の供給の場を起こし定められ、多くの人々に「火力」の普及保持を勧め、土器生産を通じ農業発展を奨励する一方、海上交通の安全を図る為、社頭に「かがり火」を焚き、航行安穏を祈ると同時に、文物の流通の道を開拓されました。 【社名由来の二=「火種を保持する庫・倉」=「火倉(ほくら)」となる】 【「灘の一つ火」の起源=社頭のかがり火が始まり】 「火力」の補給を通じ、「農業」を促進、海上交通安全から文物流通等、活気溢るる村里の繁栄に尽くされました。 丁度その頃、天っ神の御子(神武天皇)が東・大和に向かうことを聞かれ、青亀に乗り、和田の浦にて釣りをしながら、速吸の門(明石海峡)にて待機、「私は国っ神、名は珍彦」と名乗り、「皇船の先導者とならん」と申され、椎槁を通して船中に入り、神武天皇と対面、「椎根津彦」の称号を賜り、海導者として浪花に上陸、河内・大和等転戦、苦労の中に献策を立てられました。後、大和建国の第一の功労者として、神武天皇即位二年「汝、皇船に迎え、導きて、績(いさをし)を香久山の巓(いただき)に表せり。因りて、倭国造を賜る」(日本書紀・旧事本紀) また、倭宿祢として天皇の近くにあり、大和建国・安寧に貢献されました。 その後、信濃・越後の国の開発に尽力される等の後、倭国造の要職を子孫に譲り、「命」は故郷「菟原の郷」に帰り、弟猾(おとうかし)と共に郷土の育成に尽くされました。 今も昔も変わること無く、毎朝太陽の日の出を拝み、「磐座」に神々の神恩を感謝し祈りを捧げつつ、代々の祖先から継承されてきたこの聖地を護持し、敬神愛山の道を育てて行きたいものです。 社頭掲示板 |
保久良神社の歴史 保久良神社は本山町北畑の山麓に鎮座し、祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、大年御祖命(おおとしみおやのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)である。旧本庄九ヵ村の鎮座であったが、明治5年(1872)に森、深江、青木の三ヵ村に分れ、明治22年(1889)には、三条、津知は精道村(後の芦屋市)に属するようになったため次第に離れ、残る北畑、田辺、小路、中野の四ヵ村の鎮守となった。創建は不詳であるが、『延喜式』に載る古社で、付近からは弥生時代の土器や石器、銅戈が出土している。また社殿周辺の神生岩、三交岩など巨石が本殿を中心として、環状に人為的に配置がされていることから、磐座信仰がうかがえる。祭神もはじめは、椎根津彦命を祀っていた。伝説では、神武天皇東征のおり、瀬戸内海の実権を握っていた一族の漁夫が、九州からこの付近の海路を案内し、その功によってシイの木で作ったカジと椎根津彦の名を賜ったといわれる。『続日本紀』によると、椎根津彦命の子孫といわれる菟原郡倉人水守等18人に姓として大和連を賜ったとある。この椎根津彦命の子孫が、先祖を追幕し、祖神として賜ったのが創祀ともいわれる。その後祇園信仰が盛んになり、天王さんと呼ばれることもある。『摂津志』に載っている棟札には、建長2年(1250)に改築されたことが記されている。 近世には、本庄九ヵ村の氏神として多くの崇敬を受け、元禄5年(1692)の寺社改めによれば、境内は69間半(約126.4m)、70間(約127.3m)。本社は妻四尺七寸(1.4m)、面五尺(約1.5m)の柿葺き。末社として天照大神(あまてらすおおみかみ)、春日大明神(かすがだいみょうじん)があった。明和2年(1765)6月、本殿と末社春日神社が焼失、翌3年に同じ規模で大江深江村善兵衛によって再建された。この時、雨覆の新設を願っている。届を受けた大坂町奉行所では与力衆が検分をして新設を認めた。弘化2年(1845)にも社殿造営が行なわれ慶応2年(1866)にも社殿が修復された。明治5年(1872)11月、郷社に列せられた。境内の末社として、天照大神と春日大明神を祀る秡御神社がある。 日本武尊(やまとたけるのみこと)は古代日本の皇族(王族)。第12第景行天皇皇子で、第14第仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。日本武尊が帯びた剣は、草薙剣といわれる。出雲で須佐之男命がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたものてきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。 社前にある常夜灯は、古来から「灘の一つ灯」として、沖をいく船の夜の目印とされてきた。伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲(九州)遠征から帰る途中、大阪湾で夜になって航路がわからなくなり神に祈ったところ、北の山上に一つの灯が見えた。それを頼りに船を進めたところ、無事に難波へ帰ることができたという。「灘の一つ灯」として、航海する人の標識となってきたことがこうした伝承を生んだのだろう。現在は、文政8年(1825)6月に建立された石灯籠が立っている。昔は北畑の天王講の人々が毎晩一晩分の油を注ぎ点火してきたが、現在は電気で点灯している。 須佐之男命(すさのおのみこと) 天照大神の弟神で伊弉諾尊から海原を治めるよう言われるが根の国へ行きたいと断り、伊弉冉尊の怒りをかい追放される。根の国へ向う前に高天原で滞在するが、次々と粗暴を行い、高天原を追放される。出雲の鳥髪山へ降った須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(やまたのおろち)への生贄にされそうになっていた少女櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八岐大蛇を退治する。そして八岐大蛇の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を天照大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる。その後、櫛から元に戻した櫛那田比売を妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県安来市)へ行き留まった。 大国主命(おおくにぬしのみこと) 国津神の代表的な神だが、天孫降臨で天津神に国土を献上したことから「国譲りの神」とも呼ばれる。すさのおの後にすくなびこなと協力して天下を納め、まじない、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建ててほしいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう。大国主を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。 椎根津彦命(しいねつひこのみこと) 神武天皇が東征において速吸門で出会った国津神で、船路の先導者となる。その後、神武天皇に献策し兄磯城を挟み撃ちにより破る。椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのって浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となる。 大歳御祖命(おおとしみおやのかみ) 神大市比売(かむおおいちひめ)は、日本神話に登場する神である。神社の祭神としては大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)の神名で祀られることが多い。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、大年神と宇迦之御魂神(稲荷神)を産んだ。2柱の御子神はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。 保久良神社の磐座(ほくらじんじゃのいわくら) 保久良神社を全国的に有名にしている磐座。かつて神の磐座や降臨場所と見なされ、大きな石が複数横たわっている。その昔、里の人が全員、時を定めてこの下に集まり、神を迎えまつり、共に飲食し神の遺志を聞いていた光景を想像させる巨石群。「ほくら」という社名も最上で卓出したものを示す「穂」と、すわる所を意味する「坐」を合成した語でこの巨石にちなむ名前だと考えられる。 社頭掲示板 |
保久良神社 当社は古代祭祀の遺蹟地と認められ、境内外地の環状岩籬の(磐座、磐境)内より石器類、弥生式土器が多数出土し、重美に認定された銅戈等も発掘された。その何れもが実用を離れ、儀礼的用途をもつものと考証され、祝部土器、玻璃製曲玉も発見されたことから祭祀の由来も極めて古きものと証明された。 中古の延喜式には社格、社名が登載されており、近年改築時には鎌倉期の青銅製懸仏が瓦の下より発見されている。 『摂津誌』には、建長2年(1250)重修の棟札を所持せる事が記載されている。往昔より本庄の庄の総氏神にして、社頭の灯明台の神火は“灘の一つ火”として、「沖の舟人たよりに思う灘の一つ火ありがたや」の古謡通り広く崇敬され航海者の一針路となっていた。 これは祖神の事蹟である海路嚮導を追慕し、昔はかがり火を燃やし、近古は種油にて神火を点じつづけ1日も絶やさず奉仕を伝承してきた。 兵庫県神社庁 |
保久良神社 鍬靫 保久良は假字也○祭神詳ならず○本荘北畑村に在す、」今天王と称す、(摂津志) 神社覈録 |
郷社 保久良神社 祭神 須佐之男命 相殿 大歳御祖神 大國主命 勧請年月詳ならす、(〇明細帳)延喜の制小社に列せられ、祈年祭鍬靫各一口を加拳る、当社の梁文に建久2年重修とありと神名帳考証に見えたり、尚摂津名所巡覧図会に「今牛頭天王と称し本荘九ケ村の生土神なり、と記せり、明治5年11月郷社に列す、社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地は426坪(官有地第一種)あり、37年中内務省指令甲第221号を以て。更に上地林反別一町一反六畝十八歩を境内に編入せらる。 明治神社誌料 |