保久良神社
ほくらじんじゃ


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【社名】

「ホクラ」とは、
(1)三韓征伐の際、戦利武器を収藏した場所、即ち「矛倉」(ホコクラ)が転じて「ホクラ」になつたという
(2)古くから社頭の灯明台の神火が航路標識ともなり、灘の一つ火と称して崇拝せられてきた、即ち「火倉」(ホクラ)から起つたもの
(3)この場所から多数の彌生式土器の破片や石器類、銅文が出土し、又古代祭祀の遺蹟地であつた関係上、祭祀用具の収藏庫即ち、秀倉(ホクラ)、神聖な収藏庫のある場所から発祥した名称
などが考えられる。


【祭神】

御祭神「椎根津彦命」の御事蹟(その一)
摂津国菟原郡〔夙川西岸から生田川東岸までの間)の統治を委任された「命」は、多くの村里が良く見渡せる場と、海から昇る日輪〔太陽)が遥拝できる場を兼ね合せた処を、海上から眺め探し求められ、最適な場所として、「ほくら山」を見つけられ、青亀を麓の真下の海岸に着けられました。
【この由緒から、青亀が着いた岸部・青木の地名が起こる】
早速、青木→南田辺→北畑を経て山を目指して登られました。山頂から、眼下に広がる海、対岸の山々、東西に広がる村里を眺められ「命」の心に適合した場所であり、祭祀する場として清めた後、東から昇る日輪を遥拝し、大岩を並べ「盤座」とされ、「祖先神」(須佐之男命・大歳御祖命・大国主命)を祭祀して「農業生産・諸業繁栄・村里安全」を一族の人々と共に祈願されました。
【社名由来の一「ホ」は「ヒ」(神霊)を集めた場(倉)から】
そして一族の人々共に、生活改善向上の策として、日々・常時「火種」の供給の場を起こし定められ、多くの人々に「火力」の普及保持を勧め、土器生産を通じ農業発展を奨励する一方、海上交通の安全を図る為、社頭に「かがり火」を焚き、航行安穏を祈ると同時に、文物の流通の道を開拓されました。
【社名由来の二 「火種を保持する庫・倉」=「火倉」となる】
【「灘の一つ火」の起源=社頭のかがり火が始まり】
御事蹟(その二)
「火力」の補給を通じ、「農業」を促進、海上交通安全から文物流通等、活気溢るる村里の繁栄に尽くされました。
丁度その頃、天つ神の御子(神武天皇が東・大和に向かうことを聞かれ、青亀に乗り、和田の浦にて釣りをしながら、速吸の門(明石海峡)にて待機、「私は国つ神、名は珍彦」と名乗り、「皇船の先導者とならん」と申され、稚橋を通して船中に入り、神武天皇と対面、「推根津彦」の称号を賜わり、海導者として浪花に上陸、河内・大和等転戦、苦労の中に献策を立てられました。後、大和建国の第一の功労者として、神武天皇即位2年「汝、皇船に迎え、導きて、績を香具山の嶺に表せり。因りて、倭国造を賜る」(日本書紀・旧事本紀)また、倭宿称として天皇の近くにあり、大和建国・安寧に貢献されました。
その後、信濃・越後の国の開発に尽力される等の後、倭国造の要職を子孫に譲りり、「命」は故郷「菟原の郷」に帰り、弟猾と共に郷土の育成に尽くされました。 今も昔も変わること無く、毎朝太陽の日の出を拝み、「盤座」に神々の神恩を感謝し祈りを捧げつつ、代々の祖先から継承されてきたこの聖地を護持し、敬神愛山の道を育てて行きたいものです。
社頭掲示板


【磐座】

「磐座」古代祭祀遺蹟地
「ほくら」の境内には、大きな岩がたくさんあります。
この岩は「立岩(タテイワ)」といわれ、神様に祈るために人々が立て起こした祈願岩の一つです。
社務所の裏の大きな岩は、「神生岩(カミナリイワ)」と呼ばれております。
神社の建物の裏の岩群を中心に境内にかけ、大きな円形状に大岩が配置されております。このように配置された岩群は、「磐座(イワクラ)」と呼ばれ「磐境(イワサカ)」ともいわれます。
昔の人は、大きな岩に常世の国より神様をお招きして、農業生産、諸業繁栄、村里安全を祈願いたしました。
このように古代人等が祈願した神聖な場所ですから、現代では「古代祭祀遺蹟地」と呼ばれ、祈る時に使用された「つぼ・かめ・さら」などの土器破片や「やじり・おの」の石器も多数出土しております。それらは「弥生式」の中期の時代のものと認定され、紀元前二百年前頃より、この「ほくら」では、古代人が神様を祭祀していた一つの「証拠」であります。
また、ほくらの「磐座」は、昔大和の国、現奈良県桜井市の大神神社の背後の三輪山頂にある「磐座」と同じ時期のものといわれております。
社頭掲示板





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