猪名川西岸の河岸台地の上に鎮座する。池田市の五月山公園に隣接している。 応神天皇41年に穴織・呉織が渡来して技術を広めたが仁徳76年両名は没した、仁徳天皇は両名を祀る神社を立て、穴織を秦上社、呉織を秦下社とした。この秦上社が当社である。当神社は秦上社として鎮座以来現在地にあつた。 尼崎市下坂部の伊居太神社が本来の地とされるが、中古この地の繁栄に件って、穴織大神を祀る伊居太神社を町の入口に遷座して産土神と仰ぎ、呉織祠の御旅所と定めた。何時しか呉織祠を伊居太神社と混称するに至った。 |
居伊太神社 正式名称は穴織(あやはとり)宮居伊太神社といいます。歴代の天皇・貴族・将軍など貴人の信仰が厚い神社でした。また、歴代天皇・皇族の勅願所として天皇が勅使をたてて祭事の行われました。神社としての起源は非常に古く西暦460(?)年頃にまで遡るようです。中国の霊帝4代目である阿知使主(あちのおみ)とその子、都加使主(つかのおみ)が日本に帰化し様々な文化的貢献をします。両人は天皇に願い出て、織物・衣服の技術向上のため呉の国に渡り、ついに裁縫と機織の師を得て帰国します。その功績により阿知使主と都加使主は、猪名の津(川辺郡から池田・豊中にかけて)を領地として与えられて、同地で技術教育にあたったのでした。 これら関係者の存命中、多くの技術者を育成し日本の技術発展に貢献したとして天皇は、勅願により神社を建立しました。正式名称(後世に命名)の「穴織宮居伊太神社」の「穴織」とは、その時に来日し機織の指導に当たった「穴織・呉織の師」に由来します。 その後、860年(貞観2)清和天皇勅定をもって社殿の修復、源満仲公造営再興して1325年(正中2)、後醍醐天皇によって「穴織宮居伊太神社」の宸筆を受け命名されます。1339年(暦応2)足利尊氏により更に拡張は続き、社殿の改築と寺領の寄付があります。 その後の天正年間(1573〜1592)、荒木摂津守村重の謀反により、池田のめぼしい社寺はことごとく戦火に遭い、伊太神社も難を逃れる事はできず全焼します。1604年(慶長9)内大臣豊臣秀頼公は、片桐且元を普請奉行に命じて社殿を再建、造営します。現在もその当時の建物が戦災や難に遭わずその勇姿をとどめています。 社頭掲示板 |
穴織宮伊居太神社の由緒 人皇16代応神天皇20年巳酉秋九月日本国に漢の直太祖後漢の霊帝4代の孫阿知使主その子、都加使主十七県の部下を率いて帰化した。そこで天皇の37年丙寅春2月天皇思召して天下人民衣服裁縫の術を知らず春夏秋冬の衣服が作れなかった今呉国には立派な縫工女が居ると聞き勅使として阿知使主都加使主に命じて呉国に縫工女を求めようと考えられた。二人は勅使となって呉国へ出発した。先づ高麗国に渡つたけれどそれから先、呉国への道を知らなかったので高麗王に願い久礼波、久礼志の二人を道案内者として選んで頂き漸く呉国に事故もなく到着した。 呉王は工女兄媛弟媛、呉織、漢織の四人の婦女を与へられたのである。今の世に呉をくれと読むのは道案内の久礼波、久礼志の名をかたどったのである二人の功績を忘れないためである。同天皇41年春2月阿使主等は呉より筑紫へ帰へり着いた時に胸形の大神が工女達を乞われたので兄媛を差し上げられた残り三人の工女を連れて津の国に帰着し以来呉衣縫蚊屋衣縫と云はれて居る由因は是である呉織は呉の人であり漢織は漢の人である。この二人は呉服の里に居住されたけれど弟媛は目何処に居られたか明らかでない。22代雄略天皇の時代にも呉織、漢織、兄媛、弟媛が来日して居るけれど此れは職名であり異人である。 応神天皇の時代の前から衣服裁縫の技が明かでなかった。 この二媛の教えにより天下の婦女が裁縫の術機織の術を教えられ四季の衣春秋の衣服上下の服装を教えられたその効により天皇は宮中に縫殿寮を設け縫部司縫女部を設け二女を祀られたのである。 これより先麻をつむぎ蚕を飼い桑の皮をつむぎ麻の皮から織物を作っていたのであるが二媛の教へにより呉織蜀錦等綾羅錦の衣服が出未るようになったのである。今呉服尺、呉竹、呉藍、生姜等此時に持帰へれるもので呉橘、冴床等もこの頃に呉国から我国に入り呉国の文化が広まった。二媛は一室にこのり、その身に光明がありひたすらに機織と裁縫に従事され百余歳の高令まで我国の文化の興隆に貢献されこの地に絹掛の松、染殿井、絹館の里、唐船潭等の地名が残るのも当然のことと思はれる此の二媛が他界されたので仁徳天皇は76年9月8日に衣服裁縫の功績を称えるため祭上の社、祭下の社を建立し両媛の功績をたたへ降世までその功を忘れない様に残され世の人々は文化発祥の神として代々お祀りを続けたのであります。 社頭掲示板 |
穴織宮 伊居太神社 当社は正式名称を「穴織宮 伊居太神社」(あやはぐう いけだじんじゃ)といい、仁徳天皇77年(390年)創建の、池田市に現存する中では最古の神社です。 現在の社殿は慶長9年(1604年)豊臣秀頼公により、片桐且元を普請奉行に再建されたもので安土桃山文化の面影を色濃く残すものです。 御本殿は「千鳥唐破風三棟寄造」という、中央に唐破風、両側に千鳥破風を組み合わせた、全国にも例を見ない珍しい構造であり、建物の装飾も内部にも透かし彫りを施し立体的に仕上げる「籠彫」という技法が用いられるなど精巧なものである。 御祭神は中央に「穴織大明神」、向かって右に「応神天皇」、向かって左に「仁徳天皇」をお祀りしております。いずれも当社創建の由緒である「織姫伝説」に関わりのある御祭神です。 穴織大明神とは、日本に機織・裁縫の技術を伝えた「穴織姫」のことであり、また応神・仁徳の2代の天皇が合祀されていることから、産業・文化・学芸、さらには武術のご神徳を頂けるとして広く信仰されてまいりました。 現在でも、池田市新町、西本町、本町、建石町、城山町、上池田、城南東、城南西、綾羽1丁目、綾羽2丁目、大和町、五月丘の氏神として地域の崇敬を集めるのはもとより、五月山の豊かな自然に囲まれ、四季折々の季節を楽しめることから、多くの方にご参拝いただいております。 御由緒 当社は仁徳天皇77年(西暦390年)に創建された、池田市内に現存する最古の神社であり、古くは延長5年(927年)にまとめられた、当時の官社(国から捧げ物のあった神社)の一覧である「延喜式神名帳」にも記載された由緒正しい神社です。 また当社の御祭神である「穴織大明神」については古くより「織姫伝説」として広く知られる御由緒があります。 織姫伝説 応神天皇37年(西暦306年)、衣服・裁縫・織物の技術を求めた応神天皇は東漢氏の祖である阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかぬし)の親子に命じて当時その技術が大変優れているとされていた呉の国(現代の中国蘇州市周辺)に技術者を迎えるように遣わしました。 使者を迎えた呉の国にてその願いは聞き入れられ、数多くの技術者の中から裁縫の技術に優れた兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)と機織の技術に優れた穴織(あやは)、呉織(くれは)の4人の織姫が選ばれて日本にやってくる事となりました。 阿知使主一行と織姫達はその後、応神天皇41年(西暦310年)摂津国武庫浦 (現在の尼崎から西宮の一帯)に帰り着くものの、その地で応神天皇崩御の知らせを受け、船をそのまま猪名の海に乗り入れ、猪名の港より上陸する。 この場所が現在当社の下の猪名川にある唐船渕と呼ばれる場所とされています。その後仁徳天皇元年(西暦313年)仁徳天皇が即位され、阿知使主一族 及び織姫は仁徳天皇にお仕えすることとなり、猪名の港一帯(現在の池田市付近)を領地として賜り、この地にて盛んに機織、裁縫の技術を広める事になります。 その後全国より、多くの人がこの地に集まり機織、裁縫の技術を教わり、また それらの人々が全国にその技術を広めた事により全国に織物、裁縫が伝わることになりました。 仁徳天皇76年(西暦389年)、穴織姫は亡くなられ「姫室」に葬られますがその翌年の仁徳天皇77年(西暦390年)に天皇の命により、その功績を称えられ社を建て祀られることとなります。これより呉織の里(くれはのさと)と呼ばれていたこの地を伊居太(いけだ)と改められ、社は秦上社伊居太神社(はたかみのやしろ いけだじんじゃ)となります。 これが当社創建の由緒である「織姫伝説」です。 公式HP |
伊居太神社 伊居太は假字也、(居を計の仮字に用ふる事、其例多し、)○祭神詳ならず○今豊島郡池田村に在す、呉織社と称す、 摂津志云、旧在河辺郡小坂田村、蓋池田村旧名呉織里、以固有呉織祠也、中古遷建本社于此、因改里名曰伊居多、又改社號曰穴織、以旧躍小坂田爲神幸之地、観南郷春日社記西成郡加島神祠旧書軸而可知也、と云り、 神社覈録 |