伊居太神社の参道左手に鎮座している。 豊臣秀吉の伊居太神社社殿造営に際し、翌年送りとなったまま造営されなかったことから荒廃し、いつしか猪名津彦社の名も忘れられ、“宇保の稲荷”と呼ばれるようになった。 その後、文化12年(1815)社殿が大破したので普請しようとしたところ、社殿の下から朱にまみれた骨(神骨)が出たので、境内に祠を築いて収め、末社・猪名津彦神社と称したという。 |
為那都比古大明神由来 使主室と云うのは後漢の孝献皇帝(霊帝)の聖裔阿智王都加王の両人を祀る所で延喜式に云う摂津豊島群鎮座の爲那都比古神社である。 日本本書紀に応神天皇20年秋9月阿知使主其子都加使主は部下十七県の人達を連れて我国に帰化し大和国松隈に往居を与えられ同天皇37年春2月両人を勅使として呉国に縫工女を求めしめんとされ呉王より兄媛弟媛烏沙架女、幾利区珥女の四婦女を与へられ同41年春2月阿知使主等呉国よち筑紫に帰着したが胸月形大神の乞に兄媛を差し上げ他の三婦女を伴い摂津武庫に到る時に天皇崩御の報に接し献ずるを得ず後仁徳天皇は居館を豊島郡為那野に造営し羅綾織紐の業を専らにされその功績により此の地を呉服と名付け反正天皇は勅令を持って送り名をされ為那都比古大明神とし之が倭漢直の祖である。 降って允恭天皇の時その子孫忘奴手直に阪上姓を弟奴留間直に拳姓を賜う文化年間に古墳の盗堀がはやり阿知使主の古墳と伝へられた所も其の例に漏れず行なはれ此の所より珠塗の棺の破片入骨の若干を持帰り爲那都比古太明神跡に埋葬し現地に御祀りしたものであります。 社頭掲示板 |