福井高校の北側、山麓に鎮座する。 神社の裏山(日降丘と云う)一帯は「新屋古墳群」であり、古代氏族制度と氏神との関係の貴重な資料であるとともに金糞が多く、かっては製鉄が行われていたようである。 崇神天皇のとき天照大神が当地に降臨したので伊香色雄命に勅して祀らせた。景行天皇20年には皇女五百野媛に祀らせた。神功皇后出兵のとき新屋川原で禊をして当社を祀り、凱戦後荒魂と和魂を西の川上と東の川下に祀った(宿久荘と西河原の社)。 背後の日降丘は天照御魂神が降臨した聖地とされ、四方に青竹を立て注連縄を張った中央に『聖地 日降丘 第10代崇神天皇7年秋9月、伊香色雄命、天照御魂神亦の名火明大神を齋奉る』と刻した石標が立っている。 |
新屋坐天照御魂神社 新屋坐天照御魂神社は、第十代崇神天皇の御宇、天照御魂大神が現在の茨木市福井の西の丘山(日降ヶ丘)にご降臨され、同七年九月、物部氏の祖である伊香色雄命を勅使として丘山の榊に木綿を掛け、しめ縄を引いて奉斎したのが創祀とされ、実に2100年の歴史を有しており、摂津国屈指の歴史と社格を誇る神社であります。 第十四代仲衰天皇の御宇、神功皇后には三韓を征せられるに当たり新屋の川原にて禊の祓と戦勝祈願をされ、凱旋の後、天照御魂大神の荒魂、幸魂を西の川上と東の川下の辺りに斎祀らせました。(上河原社・西河原社) 貞観元年(859)には従四位下、天慶3年(940)には正四位上の神位を授かり更に、延喜年中には延喜式内名神大社として四時祭・相嘗祭・臨時祭など数々の国家の重要祭事に預かりました。 また、当社は創建時より朝廷の結びつき殊の外つよく第二十六代継体天皇の御宇に初めて奉幣使が遣わされて以来、第九十代亀山天皇の御宇まで実に219回の奉幣使が遣わされるなど、神祇官直支配の案上の官幣大社として永く国家平安、五穀豊穣を祈願してきました。 この間、皇極3年(644)には中臣鎌子連(後の藤原鎌足)が神祇伯に任じられ、奉幣使として当社に参詣されるなど、平安時代までは朝野の篤い崇敬がよせられ、社頭は大いなる隆盛を誇りましたが鎌倉時代に至り、嶋下郡の総社と定められるも武家による諸規則の制定・強化、神領没収など社頭の衰微が始まり、室町時代末期の大永7年2月(1527)、細川家の内紛(大永の乱)により兵火に遭うところとなりご神殿、神宝、神器悉く灰燼に帰しました。 そして、天正12年(1584)、中川清秀公が社殿を再建し、現在の基礎が構築されました。清秀公は当社の氏子中河原の人であり後、その功によって、茨木城主になったと言われています。 その後、明治5年郷社に列せられ、御本殿の外、摂社として出雲社、須賀社の二社と六社神社などの末社が境内に祀られています。 公式HP |
新屋坐天照御魂神社 日降山の中腹にある新屋坐天照御魂神社は平安時代の延喜5年(905年)醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」の神名帳に記されている延喜式内社で祭神は天照皇大神(アマテラスメオオカミ)、天照国照彦火明命(アマテルクニヒコホアカリノミコト)、天津彦火瓊瓊杵大神(アマツヒコホノニニギノオオカミ)です。 崇神天皇7年、伊香色雄命(物部氏の祖)を勅使として創建。茨木城主であった中川清秀の信仰が厚く、清秀死後に妻が夫の意思を継ぎ、長男のために祈願をして、社殿を造営したことが棟札に記されています。現在の社殿は延宝6年(1676年)再建、貞享3年拝殿、天保12年(1841年)本殿を改築したものです。 また社宝には中川清秀の寄付といわれる短刀があります。 参道は旧亀岡街道から老松が茂り、見事な並木道を作り、この参道を経て社殿に至る様子は式内社の風格をそなえています。 周辺には東に将軍山古墳や将軍塚古墳、南西には紫金山古墳や青松塚古墳、それに神社の裏山一帯は新屋古墳群でそれらの中央に位置するこの神社は古代における豪族のいた土地にあります。こうした位置関係は古代氏族や氏神そして墳墓の被葬者との関係を知る上で重要な神社です。なお市内には、この他西河原、宿久庄にも新屋坐天照御魂神社があります。 茨木市教育委員会 社頭掲示板 |
新屋坐天照御魂神社 三坐 新屋坐天照御魂神社 三坐 並名神大月次新嘗就中天照御魂神一座預相嘗祭 新屋は爾比夜と訓べし、和名鈔、(郷名部)新野、(假字上の如し)天照御魂は阿麻弖留美多麻と訓べし、○祭神天照御魂神、天照神、伴酒着神、〇一座(天照御魂神)西河原村、一座上河原村、(天照大神と称す)一座福井村(天王ど称す)に在す、○式二、(四時祭下)、相嘗祭神七十一座、新屋社一座、(坐摂津国)同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、摂津國新屋神社三座、』祈雨祭神八十五座、(並大)云々、新屋社三座、 類社 山城國葛野郡木島坐天照御魂神社(名神大月次相嘗新嘗)の條見合すべし、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授摂津国從五位下勲八等新屋天照御魂神從四位下、』続日本後紀、嘉祥2年12月甲午、奉授伴馬立天照神、伴酒着神從五位下、三代実録、貞観元年5月26日辛未、摂津国從五位下新屋天照神、伴酒着神、授並正五位下、 連胤按るに、此神位にて当社三座の祭神も明かに知られたり、然るに嘉祥2年の紀に國名を脱せしより、先輩いたく惑ひて、祭事記には山城国葛野郡伴氏神社の事とし、比保古には伴馬立天照神を播磨国揖保郡粒坐天照神社の事とし、伴酒着神は省きて何方ともいはず、伴信友は当社の処には引たれど、此位階考べしとて疑ひを残せり、共に遺漏なるべし、かく書つらねて見る時は、嘉祥2年に国名はなけれど、貞観元年5月の加階に符合すれば爰に決めつ、 官幣 三代実録、貞観元年9月8日庚申、摂津國新屋神、遣使奉幣、為風雨祈焉、 神社覈録 |
郷社 新屋坐天照御魂神社 祭神 天照皇大神 彦火明命 火瓊々杵命 祭神異説あり、神社覈録には天照御魂神、天照神、伴酒看神とし、神祇志料には天照国照彦火明命、伴馬立天照神、伴酒看神とせり、創祀は社伝によれば、崇神天皇の7年9月大御神降臨し給ひしを、勅して伊香色男命をして福井上に祭らしめ給ひしに起るといふ、後神功皇后三韓征伐の時、新屋川原に於て身禊をなし、当社を祀り給ひ、御凱陣の後大御神の幸御魂荒御魂を西の川上と東の川下に祭らせ給ふ、平城天皇大同元年神封一戸を充奉り(新抄格勅符)、仁明天皇嘉祥2年12月甲午伴馬立天照神、件酒看神に從五位下を授け奉り(続日本後紀)、清和天皇貞観元年正月27日天照御魂神に從四位下を授け、同年5月26日天照神並びに伴酒看神に正五位下を授け奉り、奉幣して雨風を祈り〔三代実録)、醍醐天皇延喜の制三座並びに名神大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上官幣、及祈雨の幣帛に預り、就中天照御魂神は相嘗祭に預る延喜式、朱雀天皇天慶2年5月6日、天下の諸神位一階を進め給ふや、天照御魂神を正四位上に叙せらるといへど其所拠を知らず、(社記)、一条天皇正暦5年4月疫病火災によりて、中臣氏の人をして幣帛を奉らしむ、(本朝世記、日本紀略)。後鳥羽天皇文治元年3月3日位一階を進め給ひ、平家追討の祈として勅使を立て給ふ、中世鎌倉幕府開設以来島下郡の総社と崇めらる、後柏原天皇大永7年2月事に因りて総社の號を止む、天正12年8月領主中川清秀社殿を再建す、明治5年11月郷社に列す、境内2360坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿其他神供所、手洗所、燈明所等を備へ、古木鬱蒼として頗る奮社の観を呈す。 神饌幣帛料供進 明治40年1月28日 明治神社志料 |