神服神社
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   【延喜式神名帳】神服神社 摂津国 島上郡鎮座

   【現社名】神服神社
   【住所】大阪府高槻市宮之川原町
       北緯34度51分59秒,東経135度36分0秒
   【祭神】素盞嗚命・ひの速日命・麻羅宿祢
       『神社覈録』『神祇志料』服部連がその祖神を祀つた

   【例祭】5月5日 例祭
   【社格】
   【由緒】19代允恭天皇の頃創始
       延喜年中神服神社と改める
       天正頃兵火で焼失

   【関係氏族】服部連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 神服神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所・手水舎・絵馬所

   【境内社】春日神社・稻荷神社・上宮神社・若宮神社
   【神宮寺】安岡寺

清水小学校の北隣に鎮座する。 もとは「服部神社」と称していたが、延喜年中に「部」を除き、上に「神」を付して「神服神社」と改め、「カムハトリ」と呼ぶようになつた。
この地は織部司として諸国の織部を統括していた服部連の本貫であり、その祖神を祀つた社である。維新前は、社僧として服部安岡寺の僧侶が社務をとつていたが、明治の初めにこれを廃し、同5年郷社に列した。
祭神の素盞嗚命は織田信長が素盞嗚命・天照大神以外を祀る神社を破壊したので加えたという。
神社の北西塚脇の竹林の間には、大小14の古墳が群がり、いづれも当時の機織部の墳墓という。


神服神社由緒略記

神服神社は延喜式内の古社で、19代允恭天皇(大和時代の西暦443年頃。仁徳天皇の第4皇子)の御世に、この付近一帯に機織りが盛んであったところから地名を服部(はとり)と呼んでおりました。服部はもともと「機織部=はとりべ」からきたもので、機織りを職とする部族の名前でした。服部連は允恭天皇から機織部司に任命され、国々の織部を総領したことにより「連」姓を賜り服部連と称しておりました。その服部連の勧請により建立されたもので「服部神」と称しておりましたが、醍醐天皇(887年〜930年)の延喜年間に「神服神社」(カムハトリカミノヤシロ)と改めました。いつの頃からか「しんぷくじんじゃ」と音読みされるようになりました。 御祭神はヒノ速日命、麻羅宿禰を祀っておりましたが、後に素戔嗚命を配し三神をお祀りしておりました。その後明治41年11月宮之川原の春日神社(天児屋根命)稲荷神社(宇賀御魂大神)を、また塚脇の上ノ宮神社(服部連公)浦堂の若宮神社(天児屋根命)大蔵司の神明神社(天照大神、豊受大神)を合祀し、お祀りするようになりました。 当初氏地は広く、清水村、芥川村、如是村大字津之江、同 西五百住、阿武野村大字氷室、同 岡本、同 苛川(いずれも旧称)に至りましたが、現在は宮之川原を中心に周辺の集落であった、塚脇、西之川原、大蔵司、浦堂のほか安岡寺、松が丘、真上、寺谷の一円になっています。
境内地は1280坪あり、周りが市街地化されて行く中で、木々も繁り季節によっては小鳥の囀る声も聞こえ、氏子崇敬者、参拝者の心癒される場になっています。

ホームページ由緒



神服神社由緒略記

神服神社は宮之川原にあり、延喜式内の古社で、素盞鳴命、火之速日命、麻羅宿祢の三神をおまつりしてあります。
この付近は、昔服部連が住んでいたところで、あたり一帯は機織がさかんであったところから、その地名を服部と呼ぶようになりました。 服部はもともと「機織部……はとりべ」からきたもので「はとりべ」とは、機織を職とする部族の名称でした。
服部連は、第19代允恭天皇(約1,500年前)のころ、織部司に任命され、国々の織部を総領したところから、服部連という連姓を賜わりました。
社伝によりますと、神服神社は允恭天皇の御代に、服部連の御代に、服部連の勧請により建立されたもので、火之速日命、麻羅宿祢の祖神をこの地にお祀りし、服部神(機織の神)を称していたのを、醍醐天皇の延喜年間(1,080年ほど前)に、現在の神服神社に改めたいということです。
維新前は、社僧として服部安岡寺の僧侶が社務をとっていましたが、明治の初めにこれを廃し、同5年郷社となりました。氏地は広く、塚脇、宮之川原、浦堂、大蔵司西之川原の一円にわたります。
また、神社の北西塚脇の竹林の間には、大小14の古墳が群がり、いずれも当時の機織の墳墓と推察されます。
そのうちのひとつである、円墳形の連塚が服部連の墓で周囲にはサクをめぐらし、その前に自然石の大きな碑が立っています。
この塚の上にまつられていた上宮神社は明治41年神服神社に合祀されました。
その東方で、さきに発掘された御女塚が、服部連の夫人の墓といわれ、確証はありませんが、墳のつくり、出土品等からみて、年代がほぼ一致するとみられています。
なお、このあたりの古墳群のうち、3つが方墳(朝鮮・中国に多い)であるところから、当時機織の技術者として服部連に支配されていた帰化人の墓であることがうかがえます。
神服神社祭事日 
一月一日   新年祭
二月三日   節分祭
三月五日   祈年祭
三月十三日  稲荷祭
五月五日   大祭
六月一日   塚祭・龍神祭
七月一日   歯固祭
九月一日   八判祭
十一月十五日 七五三
十一月二十三日勤労感謝祭
十二月十五日 稲荷火祭

由緒書




神服神社

平安時代以来の延喜式内の古社素盞鳴命・火之速日命・麻羅宿禰の三神を祀る。
この地和名抄にいわゆる「服部郷」で諸国の織部の部民を統括した服部連の居住地である。伝承では允恭天皇の時麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから8・9世紀のころ服部部民の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。
当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(10世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。
維新以前、神仏混交の時代には安岡寺の社僧が執務したが、明治初年これを廃し同5年には郷社に列した。
また近世には農耕・養蚕の神として村民の信仰厚く、社前の鳥居は延宝6年(1678)雨乞いの祈願成就の折建立されたもの。祭礼は毎年5月5日古くは棒振りの神事があり、神輿は阿久刀神社までお渡りがあった。
氏地は広く、塚脇、宮の川原、浦堂、大蔵司、西の川原を含む久服部村一円にわたっている。

社頭掲示板



神服神社

神服(しんぷく)神社は、摂津峡につらなる帯仕山(おびしやま)のすそ野にある服部盆地の最奥に鎮座しています。
この帯仕山の山すそから山頂にかけての塚脇地区一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、また、神社の南側には、大蔵司遺跡(弥生時代〜鎌倉時代)がひろがり、このあたり一帯は古くから人々が生活を営んできた地域でもありました。また、江戸時代には、神社の近くを通る道は神峯山寺へと参るために利用されており、神服神社へ立ち寄る人も多かったのではないでしょうか。
神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。
さて神社の名前ですが、服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。明治時代には、宮之川原の春日神社や稲荷神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀し、現在に至っています。塚脇の上宮神社は、かつて連塚(むらじづか)とよばれる古墳の上にあって、祭神が服部連となっていることから、この塚は同連の墳墓であろうという伝承として息づいています。
神服神社の例祭の神輿渡御式は、「服部棒振祭」とも「チョーハ祭」とも呼ばれ、昭和初期まで盛大に執り行われてきました。神輿は、笠森神社、阿久刀神社を巡り、総勢100名をこえる行列は周囲を圧倒するものがあったといいます。今は、神輿渡御は行われていませんが、伝えられている神事のみが、5月5日に行われているといいます。

高槻市インターネット歴史館



神服神社

神服は加武波止利と訓べし、和名紗、(郷名部)服部、(波止利)○祭神服部氏神歟○服部村に在す○姓氏録、(摂津国神別)服部連、漢之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也、允恭天皇御世、任織部司総領諸国織部、因號服部連、
類社
大和國城下郡服部神社の條見合すベし

神社覈録



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