神服神社
かむはとりじんじゃ


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【摂津國嶋上郡服部村と氏神、神服神社】

摂津國島上郡服部村は、芥川の扇状地に広がる耕地、南部は淀川方面に広がり、北部は北摂山地に限られ、弥生時代には農耕が行われて集落が散在していたことは出土土器などから判明している。弥生時代に集落を束ねていた首長の墳墓は、集落を東西に取り巻く丘陵部の頂上部あたりに営まれたようで、西部丘陵の西の谷に展開する奈佐原集落領との境界に位置する丘陵頂上部の墓ケ谷一帯に、南は大蔵司領から北部は西之川原領にかけて展開していた「墓ケ谷古墳群」であるとされる。また、浦堂地域に幡居した首長は東部の芝居谷頂上部に構築したのである。
 墓ケ谷古墳群の南部には、古墳時代前期の三島地域の支配者、斯麻氏の墳墓が展開している。弁天山A,B,Cと続く墳墓群で、築造期は大和の箸墓古墳と同時代、3世紀から4世紀にかけてのものであり、その規模は日本の前期古墳の10指に入る大古墳とされる。
 斯麻(しま)氏の本貫地は、今日の三島郡衙跡とされ、斯麻(島)氏の支配下にあって服部地域を治めていた小豪族がいたのである。
 5世紀に入ると、倭国と朝鮮半島との交流は実に盛んになる。応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略と後に呼称される倭の五大王の時代である。
 允恭が治めていた5世紀中葉、半島から渡来人弓月君がやってきた。後年秦氏を称する氏の先祖で、同族を多数率いて渡来した。その一人に麻羅と名乗る人があり、かれがこの服部地域に養蚕の技術をもたらした。丘陵部には桑が植えられ蚕が飼育されたのである。農耕一本に頼る村から機業に従事する村に変貌した。村は豊かになり、耕地の開発もこれまで以上に進められ、灌漑用水の整備も行われた。先進技術を持って指導に当たったのは麻羅氏である。
 服部村の用水は芥川掛かりである。その取水口は塚脇垣内の西北部、芥川が摂津峡谷を流れ出て服部にさしかかったところである。浮岩と呼称される巨大な岩石が水面にわずかに頂きを覗かせているところで、水流はここで正面の岸壁に当たって流路を東から南に変える。ここに井堰を設けて水流をせき止め、用水路へと導くのである。この用水路で服部の耕地に導かれた用水は、耕地全体に張り巡らされた小用水路に分岐し、すべての耕地に行き渡るように設計されている。服部の耕地は北部から南部にかけてわずかずつ南に傾斜しているので、水平水準器のなかった時代にもかかわらず、見事な設計で耕地が開発されて行ったのである。
 こういう技術は弥生の人々の力だけではとうてい及ばなかった。用水路設計など農業技術をはじめ養蚕機業をもたらし、服部に豊かさをもたらしてくれた恩人は麻羅氏であった。
 この麻羅氏の何代目かの子孫が「宿祢」の位を朝廷より賜り、麻羅宿祢と称したのである。
 またこの一族は機業に従事していることから、「機」(はた)氏の姓を賜り、かれらが元は中国秦朝の子孫として朝鮮半島に移住したとの由緒をもっていることから、「ハタ」の漢字に「秦」をあて、秦氏ととなえるようになった。
 秦氏は機業に携わる部民を統括する職務を与えられ、彼の傘下にある村々は「服部」と呼称されるようになったのである。島上郡の服部を支配する秦氏は、諸国に散在する機業従事者を統括する職務を命じられ、「服部連」という姓(かばね)を朝廷よりさずかり、秦氏は服部氏を称するようになり、その支配下村も「服部」村と称されるようになったのである。
 現在、塚脇には「服部連」を葬った「連塚」(むらじつか)が残る。明治期まではその妻の墓とされる「御女塚」(おんにょつか)も存在していた。また近年の大規模開発まではこの塚脇集落周辺には50基前後の古墳が残存していた。ただ、考古学的には古墳時代後期のものとされるので、秦氏の最初の渡来者から100?150年後のものと推定される。つまり、秦氏の子孫が多くの業績を残し、村人から崇められるようになって祭祀されたものと考えられる。
塚脇集落の丘陵部に服部氏一族の墳墓が次々に築造されたころ、服部村に富をもたらした再開発領主として服部氏の先祖を氏神として祭祀した。麻羅宿祢、服部蓮を祭神として弥生時代から続く服部村の先住民と服部氏の子孫によって蓮塚南部に祭祀されたのが服部村における最初に氏神であった。
 この氏神には古代の風習として宮寺が築造された。宮を守護する神宮寺である。この神宮寺は氏神が服部村の中央部、宮之川原に遷座されて大規模な氏神として発展する中で近世に入るまでに消滅した。
 宮之川原に遷座したのは延喜式以前と考えられる。延喜式には神服神社として島上郡4社の一つとして記載されており、元は「服部神」と称したとされている。今日に残る阿久刀神社、野見神社三島鴨神社の四社の一つとして格式が認められる神社に成長していたのである。
 宮之川原に遷座後、塚脇の社は「上宮」と称され、神宮寺があったことからこの地域は「上寺」垣内と呼称されるようになった。塚脇垣内と呼称されたのは、北西部一帯であり、幕末に至るまで年貢勘定帳などには、個人名の記載の際に「塚脇ノ孫兵衛」、「上寺ノ吉兵衛」といった表現をし全集落を塚脇と呼称したのでないことがわかる。
 この神宮寺の名称は伝わらない。しかし、そこは文禄検地の際に除地であり、17世紀中葉、明の僧隠元が黄檗宗を伝えると、宇治万福寺の末寺として「向上庵」が開かれ、伝六なる僧が居住した。元禄時代の初めである。
 神服神社の社務は天台宗安岡寺の僧がとった。この神社にも神宮寺はあったようで、その本地仏は薬師如来、安岡寺が預かっている。神宮寺は多分境内にあったのだろうが記録にない。天正時代に兵火に罹っているので、そのとき焼失した可能性が大きい。神社には今日の宮司に相当する神主は存在したものの、その身分は「宮守」であり、その職務名も宮守と呼称され、供御水や榊を供え日々宮の守りをする賤職に近い存在であり、安岡寺の僧が宮の「別当」と表現されている。安岡寺は神服神社の神宮寺ではないが、神宮寺の消滅後に神宮寺的な役割を担うようになったのだろう。
さて、渡来人秦氏によって開かれた村、服部郷は670年の律令制度開始時には口分田を供給でき得る郷の一つとして朝廷に認識されていた。島上郡内には、真上郷(当初は白髪郷)、野見郷、児屋郷、高於郷、それに服部郷である。 児屋郷、高於郷の所在地は諸説あって必ずしも特定できないものの、この5郷以外の土地には口分田を供給できる耕地はまだ開かれていなかったと言える。
服部郷の北部に位置する原盆地もまだ農耕可能な耕地の造成は出来上がっていなかったのである。
古藤幸雄HP・高槻郷土史「神服神社と祭礼」http://sokemuku.lolipop.jp/furusato_qing_shui_de_quno_li_shi/shen_fu_shen_sheto_ji_li.html



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