JR放出駅北に鎮座する。上町台地の北側の森の宮から東に低地微高地が門真の方に続いている。その北側のかっては海辺に鎮座していたと思われる地形である。 天智天皇7(668)新羅の沙門道行が熱田の神剣を盗んで逃げるとき、神剣を河中に捨て、里人がその剣を拾い当社に納めたのが創始と伝う。 例祭日には熱田神宮より宮司、或いは神職が参拝し、同様に熱田神宮の例祭日には、当社の宮司・氏子総代等が参列する慣習が現在も遵守されている。 当社の北には神宮寺出田寺があった。 本来は高台にあったものを、明治時代にJR線開設に当たりやや低い現在地に移転したと言う。 |
由緒 阿遅鋤高日子根神は本地に降臨せられ給ひ土地を招き民に耕耘の業をさづけ恩沢をたれ給ひ、父神大国主命の神業を補翼し給ふ。郷民その御神徳を忍び摂津河内の国造神として、御神恩をお慕ひ申上げ、神いませし此の地の守護神として斎ひまつると云ひ伝へたるものにして・・・・・この宮を阿遅速雄神社と称す。古代は阿遅経宮又は浦明神と称され、のち八劒大明神と尊称す。 天智天皇(三十八代)七年十一月、新羅の僧、道行尾張国熱田宮に鎮り座す御神劔、天叢雲劔即ち草薙御劔を盗み出し、船にて本国へ帰途、難波の津で大嵐に遇ひ流し流され、古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に恐れをなし、御劔を河中に放り出し逃げ去りたり(之が地名となり、放手 放出 今「はなてん」と云ふ)後この地の里人、この御劔をお拾ひ申上げ、大国主命の御子 阿遅鋤高日子根神御鎮座の此の御社に合祀奉斎すること数ケ年後 草薙御神劔の御分霊は永遠に当御社に留まり座し、奉斎す。御神劔は天武天皇(四十代)の皇居、飛鳥の浄見原宮に御うつし申上げ更に朱鳥元年六月、皇居より尾州熱田の御社に奉還し給ひ、永へに熱田神宮に鎮り座します。右御由緒あらたかな当御社に御鎮座の八劒大神に、中御門天皇(百十四代)享保八年、御神階正一位を贈られ、八劒大明神と尊称す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
阿遅速雄神社 御祭神 阿遅耜高日子根神(迦毛大神) 草薙御神劔御神霊(八劔大神) 御祭神創祀の御由緒 阿遅耜高日子根神は本地に降臨せられ給ひ土地を招き民に耕作の業をさづけ 思沢をたれ給ひ父神大国主命の神業を補翼し給ふ 郷民その御神徳を忍び 摂津河内の国造神として 御神恩をお慕ひ申上げ 神いませし此の地の守護神として斎ひまつると云ひ伝へたるものにして………この宮を阿遅速雄神社と称す 古代は阿遅経宮又は浦明神と称され のち八劔大明神と尊称す 八劔大神奉斎の御由緒 天智天皇(38代)7年11月新羅の僧 道行尾張国熱田宮に鎮り座す 御神劔天叢雲劔即ち草薙御劔を盗み出し 船にて本国へ帰途 難波の津で大嵐に遇ひ流し流され 古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく これ御神罰なりと御神威に恐れをなし 御劔を河中に放り出し逃げ去りたり(之が地名となり 放手 放出 放出 今「はなてん」と云ふ)後この地の里人 この御劔をお拾ひ申上げ 大国主命の御子阿遅?高彦根神御鎮座の此の御社に合祀奉斎すること数ケ年 後 草薙御神劔の御分霊は永遠に当御社に留まり座し 奉斎す 御神劔は天武天皇(四十代)の皇居 飛鳥の浄見原宮に御うつし申上げ更に朱鳥元年6月 皇居より尾州熱田の御社に奉還し給ひ 永へに熱田神宮に鎮り座します 右御由緒あらたかな当御社に御鎮座の八劔大神に 中御門天皇(114代)享保8年 御神階正一位 を贈られ 八劔大明神と尊称す 菖蒲神池の由緒 仁徳天皇御病の時本社御祭神阿遅?高日子根命 夢枕にたたせ給ひ 「皇居の東方にある神池の菖蒲を供奠斎祀せられよ 必ず御病 癒ゆベし」との御神託により 神池の菖蒲を祭祀し給ひしに 忽ち平癒あらせ給ひたりと 某所に本社のその由緒書あり これが由縁にて 古来より菖蒲刈祭は 本社の特殊祭典として伝わり 神前に供奠の菖蒲は撤下後 氏子宗敬者に頒ち授け それを出入口の屋根に病魔除として祭りたるものなり 菖蒲は霊験あらたかにして邪気はらひ病魔除として端午節句に広く各戸の屋上に祭り無病息災を祈る風習発祥その菖蒲神池なり 古来より 日木武尊に因めるや 当社の神庭の細砂は脚疾に奇瑞の効験ありと云う 延喜式内 (郷社) 阿遅速雄神社 旧(摂津国東生郡放出村水劔) 日本輿地通志 摂津国之三(摂津志) 劔堤自放出村経下之辻 般若寺 馬場到河州茨田 郡土居村即国界也(之を中高野街道とも云ふ) 神廟…阿遅速雄神社=在放出村劔堤今称八劔 享保二十年冬 編者 並河誠所 名葦探杖 巻二 安永七年秋 著者 暁隣軒蟻工 阿遅速雄神社=式内の神なり放出村の劔の堤にあり 祭る所 天叢雲の宝剣なり 俗呼びて八劔の宮といふこれなり尾州熱田の神こゝに遷し祭る 照りつづき熱田の水も満てけり謹みて八劔文庫 大阪市鶴見区放出東三丁目(字水劔) 阿遅速雄神社 由緒書 |
阿遅速雄神社 阿遅は假字也(旧名味経)和名鈔、’(郷名部)味原、」速雄は波夜乎と訓べし、○祭神詳ならず○放出村劒堤に在す、今八劒と称す、(摂津志)○日本紀、孝徳天皇白雉元年正月辛丑朔、車駕幸味経宮観賀正禮、(味経此云阿□賦)朝野群戴云、遊女記、典薬寮味原牧、 神社覈録 |
郷社 阿遅速雄神社 祭神 阿遅鋤高彦根命 創祀年月確ならす、醍醐天皇延喜の制小社に列り(延喜式)、中世八剣神と称す(摂津志)、明治5年郷社に定る、 境内444坪(民有地第一種)、社殿は本殿、拝殿を備ふ、放出もと放手に作る。 「放ち出や通りの川の朝ほらけつつみむかふに舟呼ぶやたれ」 地名辞書は当社を以て式社阿遅速雄神社となさず、曰く阿遅は味生郷に因む、当に味生池の辺に在るべし」といへり。 神饌幣帛料供進 明治40年1月28日 明治神社志料 |